意識に俎板《まないた》や塗盤の上へしきりに布巾《ふきん》をかけながら云う。
「じゃ、それを握って貰おう」
「はい」
 亭主はしぜん、ほかの客とは違った返事をする。湊の鮨の喰べ方のコースは、いわれなくともともよ[#「ともよ」に傍点]の父親は判っている。鮪《まぐろ》の中とろ[#「とろ」に傍点]から始って、つめ[#「つめ」に傍点]のつく煮ものの鮨になり、だんだんあっさりした青い鱗《うろこ》のさかなに進む。そして玉子と海苔《のり》巻に終る。それで握り手は、その日の特別の注文は、適宜にコースの中へ加えればいいのである。
 湊は、茶を飲んだり、鮨を味わったりする間、片手を頬に宛てがうか、そのまま首を下げてステッキの頭に置く両手の上へ顎《あご》を載せるかして、じっと眺める。眺めるのは開け放してある奥座敷を通して眼に入る裏の谷合の木がくれの沢地か、水を撒《ま》いてある表通りに、向うの塀《へい》から垂れ下がっている椎《しい》の葉の茂みかどちらかである。
 ともよ[#「ともよ」に傍点]は、初めは少し窮屈な客と思っていただけだったが、だんだんこの客の謎めいた眼の遣《や》り処を見慣れると、お茶を運んで行ったと
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