めのついたのを機に職業も捨てた。それから後は、茲《ここ》のアパート、あちらの貸家と、彼の一所不定の生活が始まった。

 今のはなしのうちの子供、それから大きくなって息子と呼んではなしたのは私のことだと湊は長い談話のあとで、ともよ[#「ともよ」に傍点]に云った。
「ああ判った。それで先生は鮨がお好きなのね」
「いや、大人になってからは、そんなに好きでもなくなったのだが、近頃、年をとったせいか、しきりに母親のことを想い出すのでね。鮨までなつかしくなるんだよ」
 二人の坐っている病院の焼跡のひとところに支えの朽《く》ちた藤棚があって、おどろのように藤蔓《ふじづる》が宙から地上に這い下り、それでも蔓の尖《さき》の方には若葉を一ぱいつけ、その間から痩せたうす紫の花房が雫《しずく》のように咲き垂れている。庭石の根締めになっていたやしお[#「やしお」に傍点]の躑躅《つつじ》が石を運び去られたあとの穴の側に半面、黝《あおぐろ》く枯れて火のあおりのあとを残しながら、半面に白い花をつけている。
 庭の端の崖下は電車線路になっていて、ときどき轟々《ごうごう》と電車の行き過ぎる音だけが聞える。
 竜《りゅう》
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