の髭《ひげ》のなかのいちはつ[#「いちはつ」に傍点]の花の紫が、夕風に揺れ、二人のいる近くに一本立っている太い棕梠《しゅろ》の木の影が、草叢《くさむら》の上にだんだん斜にかかって来た。ともよ[#「ともよ」に傍点]が買って来てそこへ置いた籠の河鹿が二声、三声、啼《な》き初めた。
 二人は笑いを含んだ顔を見合せた。
「さあ、だいぶ遅くなった。とも[#「とも」に傍点]ちゃん、帰らなくては悪かろう」
 ともよ[#「ともよ」に傍点]は河鹿の籠を捧げて立ち上った。すると、湊は自分の買った骨の透き通って見える髑髏魚《ゴーストフィッシュ》をも、そのままともよ[#「ともよ」に傍点]に与えて立ち去った。

 湊はその後、すこしも福ずしに姿を見せなくなった。
「先生は、近頃、さっぱり姿を見せないね」
 常連の間に不審がるものもあったが、やがてすっかり忘られてしまった。
 ともよ[#「ともよ」に傍点]は湊と別れるとき、湊がどこのアパートにいるか聞きもらしたのが残念だった。それで、こちらから訪ねても行けず病院の焼跡へ暫く佇《たたず》んだり、あたりを見廻し乍ら石に腰かけて湊のことを考え時々は眼にうすく涙さえためて
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