の生涯の経過といふものであつたのかと想つた。
夏も終る頃、日比野博士一家は東京の家へ戻つて来た。またおだやかな日々が暫《しばら》く経《た》つて行つた或日《あるひ》、今も良人の研究室になつてゐる土蔵の二階から、涌子は昔、自分に貰つた蝙蝠を良人が少年の丹念を打ち籠《こ》めて剥製《はくせい》にしてあつたのを持ち出した。蝙蝠の翅《はね》の黒色は煤《すす》のやうに古び、強く触ればもろく落ちるかと見え乍《なが》ら、涌子がそれを自分の居間の主柱《おもばしら》の上方に留め付けると、古びた剥製の蝙蝠は一種の格合ひを持つた姿の張りを立派に表示するのであつた。
涌子はそれをひとりつくづく眺めてゐるうちに、少女の自分が、とある夕暮、この家に持ち込んだ蝙蝠が、祖父の狂死からこの家に伝はつた憂鬱《ゆううつ》を、この黒い奇怪な翅のいろに吸ひつくして呉《く》れたのではないかと考へるやうになつた。日比野博士夫人涌子の穏かな平凡な生涯に、この煤黒い小動物の奇怪な神秘性の裏付けのあることを、今更誰も気づかないのが、夫人自身のうら寂しくもなつかしい感懐であつた。
底本:「日本幻想文学集成10 岡本かの子」国書刊
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