るやうになつた。日比野の家の、何か物事を銜《ふく》んで控へ目に暮してゐる空気がお涌にはなつかしまれた。それには豪華を消してゐるうすら冷たい感じがあつた。お涌自身の家は下町の洋服業組合の副|頭取《とうどり》をしてゐて、家中が事務所のやうに開放され、忙しく機敏な人たちが、次々と来て笑ひ声や冗談を絶《たや》さなかつた。ときには大量の刷物の包みがお涌の勉強机の側まで雪崩《なだ》れ込んだりした。
お涌は今では、日比野の家の格子戸を開けて入ると女中の出迎へも待たず玄関の間を通り中庭に面してゐる縁側へ出て、その突当りの土蔵の寒水石《かんすいせき》の石段に足をかける――「ゐるの」といふ。中から「ゐるよ」と機嫌のいい声がして「早くおはいりよ」と皆三のいふのが聞える。そのときおくれ馳《ば》せに女中が馳《は》せつけて「失礼しました」と挨拶《あいさつ》してお涌を土蔵の中に導き、なにかと斡旋《あっせん》して退く――といふやうな親しさになつてゐる。
薄暗いがよく整つた部屋で、華やかな絨氈《じゅうたん》の上に、西洋机や椅子《いす》が据ゑてあつた。周囲には家付のものらしい古絵の屏風《びょうぶ》や重厚な書棚や、西洋
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