蝙蝠
岡本かの子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)釣瓶《つるべ》で
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)井戸|端《ばた》から
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》り
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ねば/\
−−
それはまだ、東京の町々に井戸のある時分のことであつた。
これらの井戸は多摩川から上水を木樋でひいたもので、その理由から釣瓶《つるべ》で鮎《あゆ》を汲《く》むなどと都会の俳人の詩的な表現も生れたのであるが、鮎はゐなかつたが小鯉《こごい》や鮒《ふな》や金魚なら、井戸替へのとき、底水を浚《さら》ひ上げる桶《おけ》の中によく発見された。これらは井の底にわく虫を食べさすために、わざと入れて置くさかな[#「さかな」に傍点]であつた。「ばけつ持つてお出《い》で」井戸替への職人の親方はさう云つて、ずらりと顔を並べてゐる子供達の中で、特にお涌《よう》をめざして、それ等《ら》のさかな[#「さかな」に傍点]の中の小さい幾つかを呉《く》れた。お涌は誰の目にもつきやすく親しまれるたちの女の子であつた。
夏の日暮れ前である。子供達は井戸替へ連中の帰るのを見すまし、まだ泥土でねば/\してゐる流し場を草履《ぞうり》で踏み乍《なが》ら、井戸替への済んだばかりの井戸側のまはりに集つてなかを覗《のぞ》く。もう暗くてよく判らないが、吹き出る水が、ぴちよん、によん、によんといふやうに聞え、またその響きの勢ひによつて、全体の水が大きく廻りながら、少しづつ水嵩《みずかさ》を増すその井戸の底に、何か一つの生々してゐてしかも落ちついた世界があるやうに、お涌には思はれた。
[#ここから2字下げ]
蝙蝠《こうもり》来い
簑《みの》着て来い
行燈《あんどん》の油に火を持つて来い
……………………
[#ここで字下げ終わり]
仲間の子供たちが声を揃《そろ》へて喚《わめ》き出したので、お涌も井戸|端《ばた》から離れた。
空は、西の屋根|瓦《がわら》の並びの上に、ひと幅日没後の青みを置き残しただけで、満天は、紗《しゃ》のやうな黒味の奥に浅い紺碧《こんぺき》のいろを湛《たた》へ、夏の星が、強《し》ひて在所を見つけようとすると却《かえ》つて判らなくなる程かすかに瞬《またた》き始めてゐる。
この時、落葉ともつかず、煤《すす》の塊《かたまり》ともつかない影が、子供たちの眼に近い艶沢《つや》のある宵闇の空間に羽撃《はばた》き始めた。その飛び方は、気まぐれのやうでもあり、舵《かじ》がなくて飛びあへぬもののやうでもある。けれども迅《はや》い。ここに消えたかと思ふと、思はぬ軒先《のきさ》きに閃《ひら》めいてゐる。いつかお涌も子供達に交《まじ》つて「蝙蝠来い」と喚きながら今更めづらしく毎夜の空の友を目で追つてゐると、蝙蝠も今日の昼に水替へした井戸の上へ、ひら/\飛び近づき、井戸の口を覗《のぞ》き込んではまた斜に外れ上るやうに見える。お涌は蝙蝠が井戸の中の新しく湧《わ》いた水を甞《な》めたがつてゐるのかとも思つた。ふと、今しがた自分が覗いた生々として落ちついた井の底の世界を、蝙蝠もまた、あこがれてゐるのではあるまいか――
「かあいさうな、夕闇の動物」
お涌は、この小さい動物をいぢらしいものに感じた。
「捕つた/\」
といふ声がして、その方面へ子供が、わーつと喚《わめ》き寄つて行つた。桶屋《おけや》の小僧の平太郎が蝙蝠の一ぴきを竿《さお》でうち落して、両翅《りょうばね》を抓《つま》み拡げ、友達のなかで得意顔をしてゐる。薄く照して来る荒物屋の店の灯《ほ》かげでお涌がすかして見ると、小さい生きものは、小鼠《こねずみ》のやうな耳のある頭を顔中口にして、右へ左へ必死に噛《か》みつかうとしてゐる。細くて徹《とお》つたきいきいといふ鳴声を挙げる。「ほい畜生《ちくしょう》」と云つて平太郎は巧《たくみ》に操りながら、噛みつかれないやうに翅を延《のば》して避ける。ぴんと張り拡げられた薄墨いろの肉翅《にくし》のまん中で、毛の胴は異様に蠢《うごめ》き、小鳥のやうな足は宙を蹴《け》る。二つの眼は黒い南京玉《なんきんだま》のやうに小さくつぶらに輝いて、脅《おび》えてゐるのかと見ると嬉《うれ》しさうにも見える。またきいきいと鳴く。その口の中は赤い。
お涌は、何か、肉体のうちを掠《かす》めるむづむづしたやうな電気を感じ、残忍な征服慾を覚え、早くこの不安なものの動作を揉《も》み潰《つぶ》してしまひ度《た》いやうな衝動にさへ駆られて、浴衣《ゆかた》の両|袂《たもと》を握つ
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