たまゝ、しつかり腕を組み合せ、唇を噛んで見入つてゐた。
「お呉《く》れよ、お呉れよ」
とまはりの子供達が強請《せが》む中に、平太郎はお涌を見つけると愛想笑ひをして
「お涌ちゃんに、これ、やらうね、さあ」
といつて、抓み方を教へ乍《なが》ら、お涌にこの小さい動物を指移しに渡した。
お涌は、不気味さに全身緊張させ、また抓んだ指さきの肉翅のあまり華奢《きゃしゃ》で柔かい指触りの快いのに驚きながら、その小動物を自分の体からなるたけ離すやうにして、そろ/\自宅の方へ持ち運んで行つた。お涌に蝙蝠を取られた他の子供達がうしろから嫉妬《しっと》の喚きを立てゝ囃《はや》した。
お涌が、自宅の煉瓦塀《れんがべい》のところまで来ると、あとから息せき切つて馳《か》けて来た日比野の家の女中が声をかけて
「お嬢さま、あなたが蝙蝠をお貰《もら》ひになつたのを、うちの坊ちやまが窓から御覧になつてまして、是非《ぜひ》標本に欲しいから、頂いて来て呉れろと仰言《おっしゃ》いますので…………ほんたうに御無理なお願ひで済みませんが…………坊ちやまのお母さまもお願ひして来るように仰言いますので…………」
お涌は、大人の女中の使者らしい勿体《もったい》振つた口上にどぎまぎして、蝙蝠も惜《おし》くはあるが遣《や》らなければならないものと観念して、小さい声で
「ええ、あげますわ」
といつて女中の前に小動物を差出した。
「ほんとに、済みませんで御座《ござ》います」
女中は礼を繰返しながら蝙蝠をお涌の手から抓《つま》み代へて受取らうとする。蝙蝠は口を開けてきいきい鳴き続ける。二三度試みて、たうとう指さきを臆《おく》させてしまつた女中は
「お嬢さま、まことに恐れ入りますが、とても私の手にはおへませんから、このまま蝙蝠を宅までお持ち願へませんか」
お涌は大人にこれほど叮嚀《ていねい》に頼まれる子供の侠気《きょうき》にそゝられて承知した。
日比野の家は、この町内で子供達が遊び場所にしてゐる井戸の外柵の真向《まむか》ひで、井戸より五六軒|距《へだた》つたお涌の家からはざつと筋向うといへる位置にあつた。前に大溝《おおどぶ》の幅広い溝板が渡つてゐて、粋《いき》でがつしりした檜《ひのき》の柾《まさ》の格子戸の嵌《はま》つた平家の入口と、それに並んでうすく照りのある土蔵とが並んでゐた。土蔵の裾《すそ》を囲む駒寄《こまよ》せの中に、柳の大木が生えてゐる。枝に葉のある季節には、青い簾《すだれ》のやうにその枝が、土蔵の前を覆うてゐた。町内のどの家と交際してゐるといふこともなかつた。
土蔵には、鉄格子の組まれた窓があつた。その中が勉強部屋になつてゐるらしく、末息子の皆三の顔がよく見えた。
子供達のなかの誰もこの家のことをよく知らなかつた。富んでゐる無職業《しもたや》の旧家《きゅうか》であることだけは判つたが、内部の家族の生活振りや程度のことなど、子供|等《ら》の方から、てんで知り度《た》い慾望もなかつたのである。ただ土蔵の窓から、体格のしつかりしてさうな眉目《びもく》秀麗な子供の皆三が、しよつちゆう顔を見せてゐる癖に、決して外へ出て、みんなと一緒に遊ばない超然たるところを子供達は憎んだ。さういふ型違ひな子供のゐる日比野の家は、何か秘密がありさうな不思議な家と漠然と思つてゐるだけだつた。
子供達は、お涌も時に交《まじ》つて、その土蔵の外の溝板《どぶいた》に忍び寄り、俄《にわ》かに足音を踏み立てて「ひとりぼつち――土蔵の皆三」と声を揃《そろ》へて喚《わめ》く。お涌もこの皆三の超然たるところを憎むことに於て、他の子供達に劣らなかつた。が、喚き立てる子供達の当て擦《こす》りの下卑《げび》た荒々しい言葉が、あの緊密|相《そう》な男の子の神経にかなり深刻に響いて、彼をいかに焦立《いらだ》たせるかとはらはらして堪《たま》らない気もした。それでゐてお涌自身も、子供達と一しよにますます喚き立て度《た》い不思議な衝動にいよ/\駆られるのであつた。お涌はさういふ気持ちで喚く時、脊筋《せすじ》を通る徹底した甘酸《あまずっぱ》い気持ちに襲はれ頸筋《くびすじ》を小慄《こぶる》ひさせた。
窓からは皆三の憤怒《ふんぬ》に歪《ゆが》んだ顔が現はれ
「ばか――」
と叫ぶのだが、その語尾はおろ/\声の筋をひいて彼自身の敗北を示してゐた。そのとき子供達はもう井戸の柵のところまで立退《たちの》き凱歌《がいか》を挙げてゐる。
さういふ時の皆三と、今、自分に蝙蝠を譲つて欲しいと女中にいはせに来た皆三とは、別人のやうにお涌には感じられたが、しかし、ともかくあの変つた男の子がゐて、そして町内の子どもが誰も見たことのない神秘の家へ自分ひとり入つて行くことは、お涌に取つて女中のために蝙蝠を運んで行つてやる侠気《きょうき》以上の
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