、僕とお前のコースなぞは、まあ平凡といつていいね」
博士は、この平凡といふ言葉につまらないといふ意義は響かせなかつたが、夫人にはただそれだけの言葉ではもの足りないやうな思ひがした。夫人は何気なささうに
「さうでご座いますね」
と博士の言葉に返事をしながら、今眼の前に見る蝙蝠の影に、二人が少年少女だつた遠い昔の蝙蝠の羽撃《はばた》きが心の中で調子を合せてゐるやうで、懐しい悲しい気持ちがした。
しばらくして夫人はおだやかに云つた。
「それはさうと、もう二三日でお盆の仕度にちよつと東京へ帰つて参らうと思ひます」
「そしたら序《ついで》にどつかで金米糖《こんぺいとう》を見つけて、買つて来て貰《もら》ひ度《た》いね。この頃何だかああいふ少年の頃の喰べものを、また喰べ度くなつた」
博士は庭の植物に水をやりに行つた。夫人は山の端《は》に出た夕月を見つゝ、自分が日比野の家へ入つてから、東京の家も、土蔵だけ残して、便利で明るい現代風の建物に改築したことや、良人《おっと》の母親も満足して死に、良人の兄たちとも円満に交際を復旧したことや、そして子供達の無事な成長――
これが、良人のいふ平凡な私たちの生涯の経過といふものであつたのかと想つた。
夏も終る頃、日比野博士一家は東京の家へ戻つて来た。またおだやかな日々が暫《しばら》く経《た》つて行つた或日《あるひ》、今も良人の研究室になつてゐる土蔵の二階から、涌子は昔、自分に貰つた蝙蝠を良人が少年の丹念を打ち籠《こ》めて剥製《はくせい》にしてあつたのを持ち出した。蝙蝠の翅《はね》の黒色は煤《すす》のやうに古び、強く触ればもろく落ちるかと見え乍《なが》ら、涌子がそれを自分の居間の主柱《おもばしら》の上方に留め付けると、古びた剥製の蝙蝠は一種の格合ひを持つた姿の張りを立派に表示するのであつた。
涌子はそれをひとりつくづく眺めてゐるうちに、少女の自分が、とある夕暮、この家に持ち込んだ蝙蝠が、祖父の狂死からこの家に伝はつた憂鬱《ゆううつ》を、この黒い奇怪な翅のいろに吸ひつくして呉《く》れたのではないかと考へるやうになつた。日比野博士夫人涌子の穏かな平凡な生涯に、この煤黒い小動物の奇怪な神秘性の裏付けのあることを、今更誰も気づかないのが、夫人自身のうら寂しくもなつかしい感懐であつた。
底本:「日本幻想文学集成10 岡本かの子」国書刊行会
1992(平成4)年1月23日初版第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
1975(昭和49)年発行
※ルビを新仮名遣いとする扱いは、底本通りにしました。
入力:門田裕志
校正:湯地光弘
2005年2月22日作成
2005年12月11日修正
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