》ど、島谷とお涌との結婚が決定的なものとなつた。
 ところが、そこまで来て急にお涌の心は、何もかも詰《つま》らないといふ不思議なスランプに襲はれた。そしてあるとき皆三の母親から聞いた皆三の、当分独身といつた言葉は、皆三の性格としては、もつともと思へるが「何といふ意気地なし」といふやうな言葉で、皆三を思ひ切り罵倒《ばとう》してやり度《た》い気持ちがお涌に湧然《ゆうぜん》として来た。それでゐながら、早速皆三に逢《あ》ふほどの勇気も出ない。日毎《ひごと》に憂鬱《ゆううつ》と焦躁《しょうそう》に取りこめられるやうにお涌はなつて行つた。
 東京には、かういふ娘がひとりで蹣跚《まんさん》の気持ちを牽《にな》ひつつ慰み歩く場所はさう多くなかつた。大川端にはアーク燈が煌《きら》めき、涼み客の往来は絶ゆる間もない。両国橋は鉄橋になつて虹《にじ》のやうな新興文化の気を横《よこた》へてゐる。本所《ほんじよ》地先の隅田川百本杭は抜き去られて、きれいな石垣になつた。お涌は、別に身投げとか覚悟とかさういつた思ひ詰めたものでもない、何か死とすれ/\に歩み沿つて考へ度《た》い気持ちで一ぱいだつた。
 電車の音、広告塔の灯《ひ》、街路樹、さういふものをあとにして、お涌はひたすら暗い道へ道へと自分の今の気持ちに沿ふところを探し歩いた。どことも覚えない大溝《おおどぶ》が通つてゐて小橋がまばらに架《かか》り、火事の焼跡に休業の小さい劇場の建物が一つ黝《くろず》み、河沿ひの青白い道には燐光《りんこう》を放つ虫のやうにひしやげた小家が並んでゐる。蒼冥《そうめい》として海の如く暮れて行く空――お涌には自分の結婚の仲立ちをする日比野の女主人も、それに有頂天になる肉親も、自分の婿にならうとする島谷も、すべてはおせつかいで意地悪く、恨《うら》めしく感じられた。皆三には――皆三には、無性に※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》りつき度いほど焦立《いらだ》たしさ口惜《くや》しさ、逢《あ》つてその意気地なさを罵倒《ばとう》し度《た》くて、そのくせ逢ひもせぬ自分の不思議なこじれ方をどうしやうもない……ああ、かういふ時、蝙蝠でも飛んでゐて呉《く》れればよい。子どもの井戸替への夕、あの蝙蝠も覗《のぞ》くかと見た井戸の底の落付いた仄明《ほのあか》るい世界はいまどこにあるであらう。
 お涌は、ここをどことも知らぬ空を見上げた。


 お涌と島谷との結婚は、近来なんとなく健康のすぐれぬお涌自身の返事が煮え切らず、※[#「足へん+遷」、46−6]々《せんせん》として時期も定まらぬままに過ぎて行くうち、島谷は他の縁談に方向を求め、極めて事務的な結婚をして仕舞《しま》つた。
 秋になつて、真黒な健康顔をして長い旅から帰つて来た皆三は、家に一休みすると突然母親にかういひ出した。
「今度、始めて家を離れて長旅をしてみましたが、なんとなく寂しい。やつぱり結婚でもしてみたくなりました。お涌さんを貰《もら》つて頂きませうか、お母さん」
 その言葉は別だん、力の籠《こも》つた云ひ方ではなかつたが、母親には電気のやうに触れた。母親には、何か無理に力一ぱい自分がへし曲げてゐたものに最後に弾《は》ね返されたやうに感じた。(やつぱりさうか)と母親は観念すると、たちまちそこに宿命に素直になる歓びさへ覚えた。
「やつぱり、さうだつたのかお前」
 母親の皆三にむけて微笑した眼には薄く涙さへ浮んだ。


 長い年月が過ぎて行つた一夏、日比野皆三博士が、学生たちを指導してゐる間、葉山の別荘に夫人の涌子は子供たちと避暑に来てゐて、土曜日|毎《ごと》に油壺《あぶらつぼ》から帰つて来る良人《おっと》を待受けてゐた。子供といつても長男はもう工科の学生で、二十三歳になり、妹は婚約中の十九になつてゐた。
 一色の海岸にうち寄せる夕浪《ゆうなみ》がやや耳に音高く響いて来て、潮煙のうちに、鎌倉の海岸線から江の島が黛《まゆずみ》のやうに霞《かす》んでゐる。
 兄妹は逗子《ずし》へ泳ぎに行き、友だちのところへ寄つたと見えてまだ帰らない。涌子夫人は夫に食事の世話をしつゝ、自分も食べ終つた。二人とももう脂肪気の多い食品はなるべく避ける年配になつてゐた。
 近くに※[#「魚+膠のつくり」、47−13]釣の火が見え出し、沖に烏賊《いか》釣りの船の灯《ひ》が冷涼《すず》しく煌《きら》めき出した。
 冷した水蜜桃《すいみつとう》の皮を、学者風に几帳面《きちょうめん》に剥《む》き乍《なが》ら博士は云つた。
「じつに、静かな夕方だな」
「さうでご座いますね」
 涌子夫人はまだこの時代に、この辺にはちらほらする蝙蝠の影を眺めてゐた。
「油壺の方で、毎晩食後にいろいろ教職員や学生の身の上話も出るのだが、あれでなかなか複雑な経歴なものもある。それに較べると
前へ 次へ
全7ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング