に、世の果ての審判《しんぱん》のように深刻に、夜景全局を刹那に地獄相《じごくそう》に変貌《へんぼう》せしめまた刹那にもとの歓楽相に戻《もど》す。それは何でもない。間近い城東電車のポールが電力線にスパークする光なのだが、小初は眺《なが》めているうちに――そうさ、自分に関係のない歓楽ならさっさと一|閃《ひらめ》きに滅《ほろ》びてしまうがいい、と思った。そのときどこからともなく、ハイヤーの滑《すべ》って来る轟《とどろき》がして、表通りで停《と》まったらしい。
がっしりした男の足音が、水泳場の方へ昇《のぼ》って来た。
「どなた」
貝原が薄暗のなかでちょっとはにかんだような恰好《かっこう》で立ち止った。
「私ですよ。少し遅《おそ》くなりましたが、街へ踊りに出かけましょう。出ていらっしゃいませんか」
「なぜ、裏梯子《うらばしご》から上っていらっしゃらないの」
「薄荷水をピストルで眼の中へ弾《はじ》き込まれちゃかないませんからなあ」
小初は電球を捻《ひね》って外出の支度をした。箪笥《たんす》から着物を出して、荒削《あらけず》りの槙柱《まきばしら》に縄《なわ》で括《くく》りつけたロココ式の半姿見へ小初は向った。今は失くした日本橋の旧居で使っていた道具のなかからわずかに残しておいたこの手のこんだ彫刻|縁《ぶち》の姿見で化粧をするのは、小初には寂しい。小初はまた貝原に待たれているという意識から薫のことがしとしとと身に沁みて来た。だがそれはほんの肉体的のものである。少くともいまはそう思い直さねばならない。くず折れてはならない。すべては水の中の気持で生きなければならない。向って来るものはみんな喰べて、滋養《じよう》にして、私は逞ましい魚にならなければならない。小初はぐっと横着な気持になって、化粧の出来上った顔に電球を持ち添えて
「これでは、どう」と窓の葦簾《よしず》張りから覗《のぞ》いている貝原に見せた。
「結構ですなあ。さあ出かけましょう。老先生には許可を得てますよ」
小初は電燈を消して、洲の中の父の灯をちょっと見返ってから、貝原と水泳場を脱け出した。
貝原は夏中七八|遍《ぺん》も小初を踊りに連れ出したことがあるので、ちょっとした小初の好きな喰べものぐらい心得ていた。浅夜に瀟洒な鉄線を組み立てている清洲橋を渡って、人形町の可愛《かわい》らしい灯の中で青苦い香気《こうき》のある冷し白玉を喰べ、東京でも東寄りの下町の小さい踊り場を一つ二つ廻って、貝原はあっさり小初の相手をして踊る。
この界隈の踊り場には、地つきの商店の子弟が前垂《まえだれ》を外して踊りに来る。すこし馴染《なじみ》になった顔にたまたま小初は相手をしてやると、
「へえ、へえ、済みません」
お客にするように封建的《ほうけんてき》な揉《も》み手《て》をして礼をいう。小初はそれをいじらしく思って木屑臭《きくずくさ》い汗の匂《におい》を我慢《がまん》して踊ってやる。
ときどき銀座界隈へまで出掛《でか》けることもある。そうすると今度はニュー・グランドとか風月堂とかモナミとか、格のある店へ入る。そこのロッジ寄りに席を取って、サッパーにしては重苦しい、豪華《ごうか》な肉食をこの娘はうんうん摂《と》る。貝原は不思議がりもせず、小初をこういう性質もある娘だと鵜呑《うの》みにして、どっちにも連れて行く。
月が、日本橋通りの高層建築の上へかかる時分、貝原は今夜は珍《めず》らしく新川|河岸《かし》の堀に臨む料理屋へ小初を連れ込んだ。
「待合《まちあい》?」
小初は堅気《かたぎ》な料理屋と知っていて、わざと呆《とぼ》けて貝原に訊《き》いた。貝原は何の衝動《しょうどう》も見せず
「そんなところへ、若い女の先生を連れて来はしません」と云った。
「でも、いま時分、こんなに遅く、いいのかしらん」
「なに、ちっとばかり、資金を廻してある家なので、自由が利くんです」
涼しい食物の皿《さら》が五つ六つ並んで、腹の減った小初が遠慮《えんりょ》なく箸を上げていると、貝原はビールの小壜《こびん》を大事そうに飲んでいる。ぽつぽつ父親の噂《うわさ》を始めた。
「どうも、うちの老先生のようじゃ、とても身上《しんしょう》の持ち直しは覚束《おぼつか》ないですねえ。事業というものは片っぽうで先走った思い付きを引締《ひきし》めて、片っぽうはひとところへ噛《かじ》り付きたがる不精《ぶしよう》な考えを時勢に遅れないように掻き立てて行く。ここのところがちょっとしたこつです。ところが、老先生にはこの両方の極端のところだけあって、中辺のじっくりした考えが生れ付き抜けていなさる。これじゃ網のまん中に穴があるようなもので、利というものは素通りでさ」貝原は、父親には、反感を持っていないようなものの、何の興味もないらしい口調だった。
「あたし、何にも知らないけれど、あんた、この頃でもうちの父に、何かお金のことで面倒《めんどう》を見ているの」
「いや、金はもう、老先生には鐚一文《びたいちもん》出しません。失くなすのは判っているんだから。それに老先生だって、一度あたしが保証の印を捺《お》して、いまでもどんなに迷惑《めいわく》しているか、まさか忘れもしなさらないと見え、その後何にもいい出しなさりはしませんがね」
貝原は宮大工上りの太い手首の汗をカフスに滲《にじ》ませまいとして、ぐっと腕捲《うでまく》りして、煽風器《せんぷうき》に当てながら、ぽつりぽつり、まだ、通しものの豆を噛《か》んでいる。
小初は一しきり料理を喰べ終ると、いかにも東京の料理屋らしい洗煉《せんれん》された夏座敷をじろじろ見廻しながら、
「あなた、道楽なさったの」と何の聯想《れんそう》からかいきなり貝原に訊いた。
「若いときはしました。しかし、今の家内を貰《もら》ってから、福沢宗《ふくざわしゅう》になりましてね、堅蔵《かたぞう》ですよ」
「お金をたくさん持って面白い」
「何とか有効に使わなくちゃならないと考えて来るようになっちゃ、もう面白くありませんな」
「そう」
小初は、もう料理のコースの終りのメロンも喰べ終って、皮にたまった薄青い汁を小匙《こさじ》の先で掬《すく》っていた。
ふっとした拍子《ひょうし》に貝原と小初は探り会う眼を合せた。
「今夜、何か話があるの」
小初の義務的な質問が、小初の顔立ちを引締まらせた。小初がずっと端麗《たんれい》に見える。その威厳《いげん》がかえって貝原を真向きにさせた。貝原は悪びれず、
「相当な年配の男のいうことですから、あなたも本気で聴《き》いて下さい。これは家内とも相談しての上ですから――まあ、私だちちっぽけなりにも身上も出来てみれば、出来のいい品のある子供が欲しいです。うちに一人ありますが、ひと口に云うとから駄目《だめ》なのです。人を扱いつけてる職業ですから私にはすぐ判ります。血筋というものは争われません。何代か前からきっと立派な血が流れて来ていて、それが子孫に現われて来るんですね」
「これは家内とも相談ですが」と貝原は再び儀式的の掛け合いのように念を押して、
「小初先生。世の中には、相当な知識階級の女でも、何か資金の都合のため、人の世話になるという手があります。先生をおもちゃにする気は毛頭ありません。あなたの持っている血筋をここに新らしく立てる私の家の系図へちっとばかり注ぎ入れて頂きたいのです」
貝原の平顔は両顎がやや張って来て、利を掴《つか》むときのような狡猾《こうかつ》な相を現わして来た。がそれもじきにまた曖昧《あいまい》になり、やがて単純な弱気な表情になって、ぎごちなく他所見《よそみ》をした。
小初は貝原の様子などには頓着《とんじゃく》せず、貝原の言葉について考え入った。――自分の媚を望むなら、それを与《あた》えもしよう。肉体を望むなら、それを与えもしよう。魂があると仮定して、それを望むなら与えもしよう。自分がこの都会の中心に復帰出来るための手段なら、総《すべ》てを犠牲《ぎせい》に投げ出しもしよう。だがこの宮大工上りの五十男の滑稽《こっけい》な申込みようはどうだ。
「貝原さん、子供が欲しいなんて云わずに真直ぐに私が欲しいと云ったらどうですの」
「ああ。そうですか。でもあんまり失礼だと思いまして」
貝原がようやくまともに向けた顔を真直ぐに見て、さびしい声で小初は云った。
「それで子供を生んでもらうためなんてしらじらしい、ありきたりの嘘《うそ》を云ったのですか。失礼とか恥かしいとか云っている世の中じゃないと思うわ。そんなことに捉われていたから、東京人は田舎者にずんずん追いこくられてしまったのよ。私たち必死で都会を取り返さなけりゃならないのよ」小初はきつい[#「きつい」に傍点]眼をしながら云い続けた。「それには私達、どんな取引きだってするというのよ」
小初のきつい[#「きつい」に傍点]眼から涙《なみだ》が二三|滴《てき》落ちた。貝原は身の置場所もなく恐縮《きょうしゅく》した。小初は涙を拭いた。そして今度はすこし優しい声音で云った。
「でも貝原さん、何もかも遠泳会過ぎにして下さい、ね。私、あなたのいい方だってことはよく知ってるのよ」
二三日晴天が続いた。川上はだいぶ降ったと見えて、放水路の川面《かわも》は赭土色《あかつちいろ》を増してふくれ上った。中川放水路の堤の塔門型の水門はきりっと閉った。水泳場のある材木堀も界隈の蘆洲の根方もたっぷりと水嵩《みずかさ》を増した。
普通《ふつう》の顔をして貝原は毎日水泳場へ手伝いに来た。自分の持ちものの材木の流出を防いだり櫓台の錨《いかり》に石を結びつけたりした。そして見ないような振《ふ》りをして、やっぱり小初の挙動に気をつけていた。
小初は四日目に来た薫を、ちょっと周囲から遠ざかった蘆洲の中の塚山《つかやま》へ連れて行った。二人は甲羅干《こうらぼし》の風をしながら水着のまま並んで砂の上に寝《ね》そべった。小初は薫を詰《なじ》るように云った。
「あんた、何でもあたしの方から仕向けなければ……狡《ずる》いのか、意気地《いくじ》なしなのか、どっちなのよ」
小初の言葉のしんにはきりきり真面目さが透《とお》っていながら手つきはいくらかふざけたように、薫の背筋の溝《みぞ》に砂をさあっと入れる。
「よしよ。僕《ぼく》、今日苦しんでるんだ」
薫は肘《ひじ》で払い除《の》けるが、小初は関《かま》わず背筋へ入れた砂をぽんぽんと平手で叩《たた》き均《な》らして、
「ちっとも苦しんでるように見えないわ」
「この間、水の中で君に…………、こんなに腫《は》れた」
薫は黒くなっている唇の角をそうっと大事に差し出して見せる。
「あら、それで怒《おこ》ってるの」
「違う――君はとても強い。なまじっかなこと云い出せないもの」
じりじりと照りつける陽の光と腹匍《はらば》いになった塚の熱砂の熱さとが、小初の肉体を上下から挟《はさ》んで、いおうようない苦痛の甘美《かんび》に、小初を陥《おとしい》れる。小初は、「がったん、すっとこ、がったん、すっとこ」そういいながら、あらためて前に組み合せた両肘の上に下膨《しもぶく》れの顔を載《の》せて眠《ねむ》りそうな様子をする。
「なに、云ってるの」
「機械のベルトの音」
ちょうど、水泳場と塚山と三角になる地点に貝原の持ちの製板場があって、機械の止まっているのが覗かれる。
「きゅう、きれきれきれきれきれ。これは機械|鋸《のこ》が木を挽《ひ》く音」
「ふざけるの、よしよ。真面目な相談だよ。僕は知ってる」
「知ってる? 何を」
「どうせ貝原に買われて行くんでしょう」
「誰《だれ》が、どこへ」
「知ってる。みんな」
「そんなこと、誰が云った」
「誰も云わない。だけど、僕、その位なこと、わかる男だ」
薫は女のような艶《なま》めかしい両腕で涙を拭いた。小初は砂金のように濃《こま》かく汗の玉の吹き出た薫の上半身へ頭を靠《もた》れ薫の手をとった。不憫《ふびん》で、そして、いま「男だ」と云ったばかりの薫の声が遠い昔《むかし》から自分に授《さずか》っていた決定的な男性の声のよう
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