た。これだけ真面目《まじめ》に敬蔵が娘に云うことはめったにない。窮《きゅう》してやむを得ずこれだけまともに言ったのだ。そのせいか、彼《かれ》はそのあと急に気まりの悪い衰《おとろ》えた顔つきをして、そっと汗を拭《ふ》いた。
 父親は電球の紐《ひも》を伸《のば》して、水泳場の下へ入って行った。そこでしばらくごそごそしている様子だった。
「いい具合に宵闇《よいやみ》だ。数珠子釣《じゅずこつ》りに行って来るかな」
 そういって、道具を乗せて田舟を漕ぎ出して行った。父のその様子を、小初は気の毒な儚《はかな》い気持ちで見送ったが、結局何か忌々《いまいま》しい気持になった。そして一人|留守番《るすばん》のときの用心に、いつものように入口に鍵《かぎ》をかけ、電燈《でんとう》を消して、蚊帳《かや》の中に這入《はい》り、万一|忍《しの》び込《こ》むものがあるときの脅《おど》しに使う薄荷《はっか》入りの水ピストルを枕元《まくらもと》へ置いた。小初は横になり体を楽にするとピストルの薄荷がこんこん匂《にお》った。こんこん匂う薄荷が眼鼻に沁《し》み渡《わた》ると小初は静かにもう泣いていた。思えば都会|偏愛《へんあ
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