髯《そぜん》を貯えた父の立派な顔が都会の紅塵《こうじん》に摩擦《まさつ》された興奮と、疲《つか》れとで、異様に歪《ゆが》んで見えた。もしかすると、どこかで一杯《いっぱい》ひっかけた好きな洋酒の酔《よ》いがまだ血管の中に残っているのかも知れない。
都会育ちの美食家の父娘は、夕飯の膳《ぜん》を一々|伊勢丹《いせたん》とかその他|洲崎《すざき》界隈の料理屋から取り寄せた。
自転車で岡持《おかも》ちを運んで来る若者は遠路をぶつぶつ叱言《こごと》いったが、小初の美貌と、父親が宛《あ》てがう心づけとで、この頃《ごろ》はころころになって、何か新らしく仕込んだ洒落《しゃれ》の一つも披露《ひろう》しながら、片隅《かたすみ》の焜炉《こんろ》で火を焙《おこ》して、お椀《わん》の汁《しる》を適度に温め、すぐ箸《はし》が執《と》れるよう膳を並《なら》べて帰って行く。
「不味《まず》いものを食うくらいならいっそ、くたばった方がいい」
これは、美味のないとき、膳の上の食品を罵倒《ばとう》する敬蔵の云《い》い草《ぐさ》だが、ひょっとすると、それが辛辣《しんらつ》な事実で父娘の身の上の現実ともなりかねない今日この
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