と両股《りょうまた》を踏み立て、両手を前方肩の高さに伸《のば》し、胸を張って呼吸を計った。やや左手の眼の前に落ちかかる日輪は爛《ただ》れたような日中のごみを風に吹《ふ》き払《はら》われ、ただ肉桃色《にくももいろ》の盆《ぼん》のように空虚に丸い。
ざわざわ鳴り続け出した蘆洲の、ところどころ幾筋も風筋に当る部分は吹き倒《たお》れて泡《あわ》をたくさん浮《う》かした上げ潮が凪《な》ぎあとの蘆洲の根方にだぶつくのが覗《のぞ》ける。
青海流の作法からいうと翡翠の飛込み方は、用意の号令で櫓の端へ立ち上って姿勢を調え、両腕を前方へさし延べるときが挙動の一である。両手を後へ引いて飛込みの姿勢になるときが二で、跳《は》ね出す刹那《せつな》が三の、すべてで三挙動である。いま小初は黙《だま》って「一」の動作を初めたが、すぐ思い返して途中《とちゅう》からの「二」と号令をかけ跳び込みの姿勢を取った。
それは、まったく翡翠《かわせみ》が杭《くい》の上から魚影を覗《うかが》う敏捷《びんしょう》でしかも瀟洒《しょうしゃ》な姿態である。そして、このとき今まで彫刻的《ちょうこくてき》に見えた小初の肉体から妖艶《ようえん》な雰囲気《ふんいき》が月暈《つきがさ》のようにほのめき出て、四囲の自然の風端の中に一|箇《こ》不自然な人工的の生々しい魅惑《みわく》を掻《か》き開かせた。と見る間に「三!」と叫《さけ》んで小初は肉体を軽く浮び上らせ不思議な支えの力で空中の一|箇所《かしょ》でたゆたい、そこで、見る見る姿勢を逆に落しつつ両脚《りょうあし》を梶《かじ》のように後へ折り曲げ両手を突き出して、胴《どう》はあくまでしなやかに反らせ、ほとんど音もなく水に体を鋤《す》き入れた。
目を眩しそうにぱちつかせて、女教師の動作の全部を見届けた貝原は
「型が綺麗《きれい》だなあ」
と思わず嘆声《たんせい》を挙げてやや晦冥《かいめい》になりかけて来た水上三尺の辺を喰《く》い付きそうな表情で見つめた。
都会の中央へ戻《もど》りたい一心から夢《ゆめ》のような薫少年との初恋《はつこい》を軽蔑《けいべつ》し、五十男の世才力量に望《のぞみ》をかけて来た転機の小初は、翡翠型の飛込みの模範《もはん》を示す無意識の中にも、貝原に対して異性の罠《わな》を仕込んでいた。子供のうちから新|舞踊《ぶよう》を習わせられ、レヴュウ・ガールとも近附《ちかづき》のある小初は、媚《こび》というねたねたしたものを近代的な軽快な魅力に飜訳《ほんやく》し、古典的な青海流の飛込みの型にそっと織り込ますことぐらい容易である。生ぬるい水中へぎゅーんと五体がただ一つの勢力となって突入《とつにゅう》し、全|皮膚《ひふ》の全感覚が、重くて自由で、柔軟《じゅうなん》で、緻密な液体に愛撫《あいぶ》され始めると何もかも忘れ去って、小初は「海豚《いるか》の歓《よろこ》び」を歓び始める。小初の女学校時代からのたった一人の親友、女流文学者豊村女史にある時、小初は水中の世界の荒唐無稽《こうとうむけい》な歓びを、切れ切れの体験的な言葉で語った。すると友達はその感情に関係ある的確な文学的表現を紹介《しょうかい》した。
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クッションというなら全部クッションだ。
羽根布団《はねぶとん》というなら全部羽根布団だ。
だが、水の中は、溶《と》けて自由な
もっといいもの――愛。
跳《は》ねて破れず、爪|割《さ》いて
掻き※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》らりょうか――愛。
それで海豚《イルカ》は眼を細めている。
一生、陸に上らぬ。
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これは希臘《ギリシア》の擬古狂詩《ぎこきょうし》の断片をざっと飜訳したものだそうだ。それと同じような意味を父の敬蔵《けいぞう》は老荘《ろうそう》の思想から採って、「渾沌未分の境涯《きょうがい》」だといつも小初に説明していた。
瞼《まぶた》に水の衝動《しょうどう》が少くなると小初は水中で眼を開いた。こどもの時分から一人娘を水泳の天才少女に仕立てるつもりの父親敬蔵は、かなり厳しい躾《しつ》け方をした。水を張った大桶《おおおけ》の底へ小石を沈《しず》めておいて、幼い小初に銜《くわ》え出さしたり、自分の背に小初を負うたまま隅田川の水の深瀬《ふかせ》に沈み、そこで小初を放して独りで浮き上らせたり、とにかく、水というものから恐怖《きょうふ》を取り去り、親しみを持たせるため家伝を倍加して小初を躾けた。
水中は割合に明るかった。磨硝子色《すりガラスいろ》に厚みを保って陽気でも陰気でもなかった。性を脱いでしまった現実の世界だった。黎明《れいめい》といえば永遠な黎明、黄昏《たそがれ》といえば永遠に黄昏の世界だった。陸上の生活力を一度死に晒《さら》し、実際の影響力《えいきょう
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