う》に在った。父は夏以外ふだんの職業として反物《たんもの》のたとう紙やペーパアを引受けていた。和漢文の素養のある上に、ちょっと英語を習った。それでアドレスや請求文《せいきゅうぶん》を書いて、父はイギリスの織物会社からしきりにカタログを取り寄せた。中や表紙の図案を流用しながら、自分の意匠《いしょう》を加えて、画工に描《か》き上げさせ、印刷屋に印刷させて、問屋の註文《ちゅうもん》に応じていた。ちらしや広告の文案も助手を使って引き受けていた。
 だが地元の織物組合は進歩した。画工も進歩した。今更中間のブローカー問屋や素人《しろうと》の父の型の極《きま》った意匠など必要はなくなった。父の住居|附《つ》きのオフィスは年々|寂寥《せきりょう》を増した。しばらく持ち堪《こた》えてはいたが、その後いろいろな事業に手を出した末が、地所ぐるみ人に取られた。その前に先祖から伝えられていた金も道具も失《な》くしていた。だからこの夏期は夜番と云《い》いつくろって父娘《おやこ》二人水泳場へ寝泊《ねとま》りである。
 駸々《しんしん》と水泳場も住居をも追い流す都会文化の猛威《もうい》を、一面灰色の焔の屋根瓦に感じて、小初は心の髄《ずい》にまで怯《おび》えを持ったが、しかししばらく見詰《みつ》めていると、怯えてわが家|没落《ぼつらく》の必至の感を深くするほど、不思議とかえって、その猛威がなつかしくなって来た。結局は、どうなりこうなりして、それがまた自分を救ってくれる力となるのではあるまいかと感ぜられて来た。その都会の猛威に対する自分のはらはらしたなつかしさは肉体さえも抱《かか》え竦《すく》められるようである。このなつかしさに対しては、去年の夏から互《たがい》に許し合っている水泳場近くの薄給《はっきゅう》会社員の息子《むすこ》薫《かおる》少年との小鳥のような肉体の戯《たわむ》れはおかしくて、想《おも》い出すさえ恥《は》じを感ずる。
 それに引きかえて、自分への興味のために、父の旧式水泳場をこの材木堀に無償《むしょう》で置いてくれ、生徒を世話してくれたり、見張りの船を漕《こ》いでくれたりして遠巻きに自分に絡《から》まっている材木屋の五十男貝原を見直して来た。必要がいくらかでも好みに変って来たのであろうか。小初は自分の切ない功利心に眼をしばだたいた。
 とにかく、父や自分の仇敵《きゅうてき》である都会文化の猛威に対して、少しも復讐《ふくしゅう》の気持が起らず、かえって、その逞ましさに慄《ふる》えて魅着《みちゃく》する自分は、ひょっとして、大変な錯倒症《さっとうしょう》の不良|娘《むすめ》なのではあるまいか。だが何といっても父や自分の魂《たましい》の置場はあそこ――都会――大東京の真中よりほかにないのだから仕方がない、是非もない……。
「小初先生。時間ですよ。翡翠《ショービン》の飛込みのお手本をやって下さい」
 水だらけの子供を十人ばかり乗せ、櫓台の下へ田舟《たぶね》を漕ぎ近づけて、材木屋の貝原が、大声を挙げた。飛騨訛《ひだなま》りがそう不自然でなく東京弁に馴致《じゅんち》された言葉つきである。
「お手本をも一度みんなに見せといて、それからやらせます」
 脂肪《しぼう》づいた小富豪《しょうふごう》らしい身体《からだ》に、小初と同じ都鳥の紋《もん》どころの水着を着て、貝原はすっかり水泳場の助手になり済ましている。小初はいつもよりいくらか滑《なめ》らかに答えた。
「いますぐよ。少しぐらい待ってよ」
 だが、息づまるような今までの気持からいくらか余裕《よゆう》をつけようとして、小初はもう一度放水路の方を見やった。一めん波が菱立《ひしだ》って来た放水路の水面を川上へ目を遡《さかのぼ》らせて行くと、中川筋と荒川筋の堺《さかい》の堤《つつみ》の両端を扼《やく》している塔橋型《とうきょうがた》の大水門の辺に競走のような張りを見せて舟々は帆《ほ》を上げている。小初の声は勇んだ。
「確かだわ。今晩は夕立ち、明日から四五日お天気は大丈夫《だいじょうぶ》よ」
「まあ、そんなところですなあ。遠泳会はうまく行くね」
 掌《てのひら》を差し出して風の脈に触《ふ》れてみてから貝原は相槌《あいづち》を打った。
 肩や両脇《りょうわき》を太紐《ふとひも》で荒くかが[#「かが」に傍点]って風の抜《ぬ》けるようにしてある陣羽織《じんばおり》式の青海流の水着を脱《ぬ》ぐと下から黒の水泳シャツの張り付いた小初の雄勁《ゆうけい》な身体が剥《む》き出された。こういう職務に立つときの彼女《かのじょ》の姿態に針一|突《つ》きの間違いもなく手間の極致を尽《つく》して彫《ほ》り出した象牙《ぞうげ》細工のような非人情的な完成が見られた。人間の死体のみが持つ虚静の美をこの娘は生ける肉体に備えていた。小初は、櫓板の端にすらり
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