渾沌未分
岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)跳《は》ね込《こ》み台

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)夏|稼《かせ》ぎ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)掻き※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》らりょうか
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 小初は、跳《は》ね込《こ》み台の櫓《やぐら》の上板に立ち上った。腕《うで》を額に翳《かざ》して、空の雲気を見廻《みまわ》した。軽く矩形《くけい》に擡《もた》げた右の上側はココア色に日焦《ひや》けしている。腕の裏側から脇《わき》の下へかけては、さかなの背と腹との関係のように、急に白く柔《やわらか》くなって、何代も都会の土に住み一性分の水を呑《の》んで系図を保った人間だけが持つ冴《さ》えて緻密《ちみつ》な凄《すご》みと執拗《しつよう》な鞣性《じゅうせい》を含《ふく》んでいる。やや下ぶくれで唇《くちびる》が小さく咲《さ》いて出たような天女型の美貌《びぼう》だが、額にかざした腕の陰影《いんえい》が顔の上半をかげらせ大きな尻下《しりさが》りの眼《め》が少し野獣《やじゅう》じみて光った。
 額に翳した右の手先と、左の腰盤《ようばん》に当てた左の手首の釣合《つりあ》いが、いつも天候を気にしている職業人のみがする男型のポーズを小初にとらせた。中柄《ちゅうがら》で肉の締《しま》っているこの女水泳教師の薄《うす》い水着下の腹輪の肉はまだ充分《じゅうぶん》発達しない寂《さび》しさを見せてはいるが、腰《こし》の骨盤は蜂《はち》型にやや大きい。そこに母性的の威容《いよう》と逞《たく》ましい闘志《とうし》とを潜《ひそ》ましている。
 蒼空《あおぞら》は培養硝子《ばいようガラス》を上から冠《かぶ》せたように張り切ったまま、温気《うんき》を籠《こも》らせ、界隈《かいわい》一面の青蘆《あおあし》の洲《す》はところどころ弱々しく戦《おのの》いている。ほんの局部的な風である。大たい鬱結《うっけつ》した暑気の天地だ。荒川《あらかわ》放水路が北方から東南へ向けまず二筋になり、葛西川《かさいがわ》橋の下から一本の大幅《おおはば》の動きとなって、河口を海へ融《と》かしている。
「何という判《わか》らない陽気だろう」
 小初は呟《つぶや》いた。
 五日後に挙行される遠泳会の晴雨が気遣《きづか》われた。
 西の方へ瞳《ひとみ》を落すと鈍《にぶ》い焔《ほのお》が燻《いぶ》って来るように、都会の中央から市街の瓦《かわら》屋根の氾濫《はんらん》が眼を襲《おそ》って来る。それは砂町一丁目と上大島町の瓦斯《ガス》タンクを堡塁《ほるい》のように清砂通りに沿う一線と八幡《やわた》通りに沿う一線に主力を集め、おのおの三方へ不規則に蔓延《まんえん》している。近くの街の屋根瓦の重畳《ちょうじょう》は、躍《おど》って押《お》し寄せるように見えて、一々は動かない。そして、うるさいほど肩《かた》の数を聳《そびや》かしている高層建築と大工場。灼熱《しゃくねつ》した塵埃《じんあい》の空に幾百《いくひゃく》筋も赫《あか》く爛《ただ》れ込んでいる煙突《えんとつ》の煙《けむり》。
 小初は腰の左手を上へ挙げて、額に翳している右の腕に添《そ》え、眩《まぶ》しくないよう眼庇《まびさ》しを深くして、今更《いまさら》のように文化の燎原《りょうげん》に立ち昇《のぼ》る晩夏の陽炎《かげろう》を見入って、深い溜息《ためいき》をした。
 父の水泳場は父祖の代から隅田川《すみだがわ》岸に在った。それが都会の新文化の発展に追除《おいの》けられ追除けられして竪川《たてかわ》筋に移り、小名木川《おなぎがわ》筋に移り、場末の横堀《よこぼり》に移った。そしてとうとう砂村のこの材木置場の中に追い込まれた。転々した敗戦のあとが傷ましくずっと数えられる。だが移った途端《とたん》に東京は大東京と劃大《かくだい》され砂村も城東区砂町となって、立派に市域の内には違《ちが》いなかった。それがわずかに「わが青海流は都会人の嗜《たしな》みにする泳ぎだ。決して田舎《いなか》には落したくない。」そういっている父の虚栄心《きょえいしん》を満足させた。父は同じ東京となった放水路の川向うの江戸川区《えどがわく》には移り住むのを極度に恐《おそ》れた。葛西《かさい》という名が、旧東京人の父には、市内という観念をいかにしても受付けさせなかった。ついに父は荒川放水を逃路《とうろ》の限りとして背水の陣《じん》を敷《し》き、青海流水泳の最後の道場を死守するつもりである。
 このように夏|稼《かせ》ぎの水泳場はたびたび川筋を変えたが、住居は今年の夏前までずっと日本橋区の小網町《こあみちょ
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