りょく》を鞣《なめ》してしまい、幻《まぼろし》に溶かしている世界だった。すべての色彩《しきさい》と形が水中へ入れば一律に化生せしめられるように人間のモラルもここでは揮発性と操持性とを失った。いわば善悪が融着《ゆうちゃく》してしまった世界である。ここでは旧套《きゅうとう》の良心|過敏《かびん》性にかかっている都会娘の小初の意地も悲哀《ひあい》も執着《しゅうちゃく》も性を抜かれ、代って魚介《ぎょかい》鼈《すっぽん》が持つ素朴《そぼく》不逞《ふてい》の自由さが蘇《よみがえ》った。小初はしなやかな胴を水によじり巻きよじり巻き、飽《あ》くまで軟柔《なんじゅう》の感触《かんしょく》を楽んだ。
 小初は掘《ほ》り下げた櫓台下の竪穴から浅瀬の泥底《どろぞこ》へ水を掻き上げて行くと、岸の堀垣《ほりがき》の毀《こわ》れから崩《くず》れ落ちた土が不規則なスロープになって水底へ影《かげ》をひくのが朦朧《もうろう》と目に写って来た。
 この辺一体に藻《も》や蘆の古根が多く、密林の感じである。材木|繋留《けいりゅう》の太い古杭が朽《く》ちてはうち代えられたものが五六本太古の石柱のように朦朧と見える。
 その柱の一本に掴《つかま》って青白い生《いき》ものが水を掻いている。薫だ。薫は小初よりずっと体は大きい。顎《あご》や頬《ほお》が涼《すず》しく削《そ》げ、整った美しい顔立ちである。小初はやにわに薫の頸《くび》と肩を捉《とら》えて、うす紫《むらさき》の唇に小粒《こつぶ》な白い歯をもって行く。薫は黙って吸わせたままに、足を上げ下げして、おとなしく泳いでいたが、小初ほど水中の息が続かないので、じきに苦悶《くもん》の色を見せはじめた。それからむやみに水を掻き裂《さ》きはじめた。とうとう絶体絶命の暴れ方をしだした。小初は物馴《ものな》れた水に溺《おぼ》れかけた人間の扱《あつか》い方で、相手に纏《まと》いつかれぬよう捌《さば》きながら、なお少しこの若い生ものの魅力の精をば吸い取った。

 借家を探しに行った父親の敬蔵が帰って来て雨上りの水泳場で父娘二人きりの夕飯が始まった。借家はもう半月もして水泳場が閉鎖《へいさ》すると同時にたちまち二人に必要になるのだが、価値の釣《つ》り合《あい》などで敬蔵はなかなか見つけかねた。場所はまだ下町の中央に未練があって、毎日、その方面へ探しに行くらしかった。帰って来たときの疎髯《そぜん》を貯えた父の立派な顔が都会の紅塵《こうじん》に摩擦《まさつ》された興奮と、疲《つか》れとで、異様に歪《ゆが》んで見えた。もしかすると、どこかで一杯《いっぱい》ひっかけた好きな洋酒の酔《よ》いがまだ血管の中に残っているのかも知れない。
 都会育ちの美食家の父娘は、夕飯の膳《ぜん》を一々|伊勢丹《いせたん》とかその他|洲崎《すざき》界隈の料理屋から取り寄せた。
 自転車で岡持《おかも》ちを運んで来る若者は遠路をぶつぶつ叱言《こごと》いったが、小初の美貌と、父親が宛《あ》てがう心づけとで、この頃《ごろ》はころころになって、何か新らしく仕込んだ洒落《しゃれ》の一つも披露《ひろう》しながら、片隅《かたすみ》の焜炉《こんろ》で火を焙《おこ》して、お椀《わん》の汁《しる》を適度に温め、すぐ箸《はし》が執《と》れるよう膳を並《なら》べて帰って行く。
「不味《まず》いものを食うくらいならいっそ、くたばった方がいい」
 これは、美味のないとき、膳の上の食品を罵倒《ばとう》する敬蔵の云《い》い草《ぐさ》だが、ひょっとすると、それが辛辣《しんらつ》な事実で父娘の身の上の現実ともなりかねない今日この頃では、敬蔵もうっかり自分の言葉癖《ことばぐせ》は出しにくかった。父娘は夜な夜な「最後の晩餐《ばんさん》」という敬虔《けいけん》な気持で言葉少なに美味に向った。
 いったいが言葉少なの父娘だった。わけて感情を口に出すのを敬蔵は絶対に避《さ》けた。そういうことは嫌味《いやみ》として旧東京の老人はついにそれに対する素直な表現欲を失っていた。感情の表現にはむしろ反語か、遠廻しの象徴《しょうちょう》の言葉を使った。
「隣《となり》近所にお化粧《けしょう》のアラを拾うやつもなくてさばさばしたろう」
 これが唯一《ゆいいつ》の、娘も共に零落《れいらく》させた父の詫《わ》びの表明でもあり、心やりの言葉でもあった。小初は父の気持ちを察しないではないが、「何ぼ何でもあんまり負け惜《お》しみ過ぎる」と悲しく疎《うと》まれた。
 今夜はまたとても高踏的《こうとうてき》な漢籍《かんせき》の列子の中にあるという淵《ふち》の話を持ち出して父は娘に対する感情をカモフラージュした。
「淵には九つの性質がある。静水をじっと湛《たた》えているのも淵だ。流れて来た水のしばらく淀《よど》むところも淵だ。底から湧《わ》いた水が
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