豊かに溜《たま》り、そしてまた流れ出るところも淵だ。滴《した》たって落つる水を受け止めているのも淵だ――」
父親は大体こんなふうに淵が水を受け入れる諸条件を九つの範疇《はんちゅう》にまとめて、
「これを九淵の説と云って、水はいろいろの変化で向うが、それを受け容れる淵はたった一つなのだ。この淵の無心な気持ちになっていれば世間がどう変りこっちにどう仕向けようと、余悠綽々《よゆうしゃくしゃく》なのだ。ここのところをわが青海流では、
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死屍《しし》水かかずしてよく浮く
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といって、平泳ぎのこころだ」
「それは、よくおとうさんがおっしゃる、あの渾沌未分の兄弟か何かなの」
小初は食後の小楊枝《こようじ》を使いながら父親を弥次《やじ》った。自分が人を揶揄《やゆ》することを好んで人から揶揄されることを嫌《きら》うのは都会的|諷刺家《ふうしか》の性分で、父親はそれが娘だとぐっと癪《しゃく》に触《さわ》った。しばらく黙っていたが、跳《は》ね返す警句を思いつく気力もなく、
「兄弟分でもなんでもない、全く一つのものだ」
と低い声音に渾身の力を籠《こ》めて言った。これだけ真面目《まじめ》に敬蔵が娘に云うことはめったにない。窮《きゅう》してやむを得ずこれだけまともに言ったのだ。そのせいか、彼《かれ》はそのあと急に気まりの悪い衰《おとろ》えた顔つきをして、そっと汗を拭《ふ》いた。
父親は電球の紐《ひも》を伸《のば》して、水泳場の下へ入って行った。そこでしばらくごそごそしている様子だった。
「いい具合に宵闇《よいやみ》だ。数珠子釣《じゅずこつ》りに行って来るかな」
そういって、道具を乗せて田舟を漕ぎ出して行った。父のその様子を、小初は気の毒な儚《はかな》い気持ちで見送ったが、結局何か忌々《いまいま》しい気持になった。そして一人|留守番《るすばん》のときの用心に、いつものように入口に鍵《かぎ》をかけ、電燈《でんとう》を消して、蚊帳《かや》の中に這入《はい》り、万一|忍《しの》び込《こ》むものがあるときの脅《おど》しに使う薄荷《はっか》入りの水ピストルを枕元《まくらもと》へ置いた。小初は横になり体を楽にするとピストルの薄荷がこんこん匂《にお》った。こんこん匂う薄荷が眼鼻に沁《し》み渡《わた》ると小初は静かにもう泣いていた。思えば都会|偏愛《へんあい》のあわれな父娘だ。それがため、父はいらだたしさにさもしく老衰《ろうすい》して行き、自分は初恋から卑《いや》しく五十男に転換《てんかん》して行く……。くらやみの中で自分の功利心がぴっかり眼を見開いているのに小初の一方の心では昼間水中で味《あじわ》った薫の若い肉体との感触を憶《おも》い出している……。
少したつと小初はまた起き上った。父の様子を見ようと裏口の窓を開けた。雨上りの夜の天地は濃《こ》い墨色《すみいろ》の中にたっぷり水気を溶《とか》して、艶《つや》っぽい涼味《りょうみ》が潤沢《じゅんたく》だった。下《さ》げ汐《しお》になった前屈《まえかが》みの櫓台の周囲にときどき右往左往する若鰡《わかいな》の背が星明りに閃《ひらめ》く。父はあまり遠くない蘆の中で、カンテラを燃して数珠子釣りをやっている。洲の中の環虫類《かんちゅうるい》を糸にたくさん貫《つらぬ》いて、数珠輪のようにして水に垂らす。蘆の根方に住んでいる小|鰻《うなぎ》がそれに取りつく、環《わ》をそっと引き上げて、未練に喰い下って来る小鰻を水面近くまでおびき寄せ、わきから手網《てあみ》で、さっと掬《すく》い上げる。環虫類も何だか虫の中では醜《みにく》い衰亡者《すいぼうしゃ》のように思えるし、鰻だとて、やはり時代文化に取り残されたような魚ではないか。衰亡の人間が衰亡の虫を囮《おとり》につかって衰亡の魚を捉《とら》えて娯《たの》しみにする。その灯明り――何と憐《あわ》れ深い情景であろう。むかし父親にとってこの方法の鰻取りは単なる娯しみに過ぎなかったが、今は必死の副業である。
「ゆうべ、少し漁《と》れ過ぎてね。始末に困るんだよ」
こんな鷹揚《おうよう》なものの云い方をしながら父親は獲物《えもの》を鰻|仲買《なかがい》に渡した。憐れな父子と思いながら小初はいつか今夜の父の漁れ高を胸に計算していた自分が悲しかった。
西空は一面に都会の夜街の華々《はなばな》しいものが踊《おど》りつ、打ち合いつ、砕《くだ》けつする光の反射面のようである。特に歓楽の激しい地域を指示するように所々に群《むらが》るネオンサインが光のなかへ更に強い光の輪郭《りんかく》を重ねている。さらにこの夜空のところどころにときどき大地の底から発せられるような奇矯《ききょう》な質を帯びた閃光《せんこう》がひらめいて、琴《こと》のかえ手のように幽毅《ゆうき》
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