、何にも知らないけれど、あんた、この頃でもうちの父に、何かお金のことで面倒《めんどう》を見ているの」
「いや、金はもう、老先生には鐚一文《びたいちもん》出しません。失くなすのは判っているんだから。それに老先生だって、一度あたしが保証の印を捺《お》して、いまでもどんなに迷惑《めいわく》しているか、まさか忘れもしなさらないと見え、その後何にもいい出しなさりはしませんがね」
貝原は宮大工上りの太い手首の汗をカフスに滲《にじ》ませまいとして、ぐっと腕捲《うでまく》りして、煽風器《せんぷうき》に当てながら、ぽつりぽつり、まだ、通しものの豆を噛《か》んでいる。
小初は一しきり料理を喰べ終ると、いかにも東京の料理屋らしい洗煉《せんれん》された夏座敷をじろじろ見廻しながら、
「あなた、道楽なさったの」と何の聯想《れんそう》からかいきなり貝原に訊いた。
「若いときはしました。しかし、今の家内を貰《もら》ってから、福沢宗《ふくざわしゅう》になりましてね、堅蔵《かたぞう》ですよ」
「お金をたくさん持って面白い」
「何とか有効に使わなくちゃならないと考えて来るようになっちゃ、もう面白くありませんな」
「そう」
小初は、もう料理のコースの終りのメロンも喰べ終って、皮にたまった薄青い汁を小匙《こさじ》の先で掬《すく》っていた。
ふっとした拍子《ひょうし》に貝原と小初は探り会う眼を合せた。
「今夜、何か話があるの」
小初の義務的な質問が、小初の顔立ちを引締まらせた。小初がずっと端麗《たんれい》に見える。その威厳《いげん》がかえって貝原を真向きにさせた。貝原は悪びれず、
「相当な年配の男のいうことですから、あなたも本気で聴《き》いて下さい。これは家内とも相談しての上ですから――まあ、私だちちっぽけなりにも身上も出来てみれば、出来のいい品のある子供が欲しいです。うちに一人ありますが、ひと口に云うとから駄目《だめ》なのです。人を扱いつけてる職業ですから私にはすぐ判ります。血筋というものは争われません。何代か前からきっと立派な血が流れて来ていて、それが子孫に現われて来るんですね」
「これは家内とも相談ですが」と貝原は再び儀式的の掛け合いのように念を押して、
「小初先生。世の中には、相当な知識階級の女でも、何か資金の都合のため、人の世話になるという手があります。先生をおもちゃにする気は毛頭ありません。あなたの持っている血筋をここに新らしく立てる私の家の系図へちっとばかり注ぎ入れて頂きたいのです」
貝原の平顔は両顎がやや張って来て、利を掴《つか》むときのような狡猾《こうかつ》な相を現わして来た。がそれもじきにまた曖昧《あいまい》になり、やがて単純な弱気な表情になって、ぎごちなく他所見《よそみ》をした。
小初は貝原の様子などには頓着《とんじゃく》せず、貝原の言葉について考え入った。――自分の媚を望むなら、それを与《あた》えもしよう。肉体を望むなら、それを与えもしよう。魂があると仮定して、それを望むなら与えもしよう。自分がこの都会の中心に復帰出来るための手段なら、総《すべ》てを犠牲《ぎせい》に投げ出しもしよう。だがこの宮大工上りの五十男の滑稽《こっけい》な申込みようはどうだ。
「貝原さん、子供が欲しいなんて云わずに真直ぐに私が欲しいと云ったらどうですの」
「ああ。そうですか。でもあんまり失礼だと思いまして」
貝原がようやくまともに向けた顔を真直ぐに見て、さびしい声で小初は云った。
「それで子供を生んでもらうためなんてしらじらしい、ありきたりの嘘《うそ》を云ったのですか。失礼とか恥かしいとか云っている世の中じゃないと思うわ。そんなことに捉われていたから、東京人は田舎者にずんずん追いこくられてしまったのよ。私たち必死で都会を取り返さなけりゃならないのよ」小初はきつい[#「きつい」に傍点]眼をしながら云い続けた。「それには私達、どんな取引きだってするというのよ」
小初のきつい[#「きつい」に傍点]眼から涙《なみだ》が二三|滴《てき》落ちた。貝原は身の置場所もなく恐縮《きょうしゅく》した。小初は涙を拭いた。そして今度はすこし優しい声音で云った。
「でも貝原さん、何もかも遠泳会過ぎにして下さい、ね。私、あなたのいい方だってことはよく知ってるのよ」
二三日晴天が続いた。川上はだいぶ降ったと見えて、放水路の川面《かわも》は赭土色《あかつちいろ》を増してふくれ上った。中川放水路の堤の塔門型の水門はきりっと閉った。水泳場のある材木堀も界隈の蘆洲の根方もたっぷりと水嵩《みずかさ》を増した。
普通《ふつう》の顔をして貝原は毎日水泳場へ手伝いに来た。自分の持ちものの材木の流出を防いだり櫓台の錨《いかり》に石を結びつけたりした。そして見ないような振《ふ》りをして、やっぱり小
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