さに反感を重ねて行くやうになつて、ふつつり他からの誘惑にも乗らなくなつた。それから主家の小間使ひであつた大工の娘のお静といふ可愛い少女に暫《しば》らく人知れず懸想して居たことはあつた。が、武士の血筋のプライドがいつか彼を謹厳にして、その懸想をもしりぞけさせた。お静が貧しい大工の娘であつたからである。妻のお辻も、主家の娘といふ点が、いくらか彼のプライドを緩和しただけで、たゞの町家の平凡な娘を、便宜上、妻にしたに過ぎないといふ気持ちばかりで終始してゐた。では、彼は、あるか無きかの如き陰性なお辻一人に満足し切つて、彼の男盛りの何十年を過して来たか。否、彼の心に全然、女の影のさゝぬことはなかつたのであつた。
娘達の乳呑《ちのみ》時代に、半年ほど離れ家へ抱へたお光といふ乳母《うば》(今はその乳母の為めに、離れ家を聯想《れんそう》するのさへ嫌であるが)は二十五六で、或《ある》商家の出戻り娘であつた。あたりを明るくするほどの派手な美貌《びぼう》であつた。その上、気性は如何《いか》にも痴情で、婚家から出されたと頷《うなず》けるほど浮々してゐた。それから店の下婢《かひ》のなかから珍らしく可憐《かれん》
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