再び眼をひらいた時、彼の眼の前は闇一色であつた。彼は、そつとその壁に手をふれてみた。ひやりと――おそらくさうであつたらう、彼は、その異様な感触に手の先を振りながら、自分の部屋へ駆け込んだ。
(俺は何といふ罰あたりだ)
 彼は炉の傍へうづくまつた。部屋は真暗であつた。かたく閉《とざ》した部屋の外には、ことりとも音がしない。炉の灰をかむつた火のかげろふが二つ三つ、遠い過去か未来の夢の中のロマンチックな灯のやうに、彼の想ひを引きいれるのであつた。
 宗右衛門は五十余歳の年齢にしては、若い肉体を持つてゐたが、それは彼の頑強と豪気との抑圧的な一種の反感を対者に加へるにとゞまつて、誰も彼から淫蕩《いんとう》の感じを受ける者はなかつた。実際、彼には、生来さうした行跡は殆《ほとん》どないと言つてもよかつた。江戸の主家に居る時、ほんの小僧の時、一度、若者になつてから二三度、無理やりに朋輩《ほうばい》や先輩に誘はれて遊女屋へ足を入れたことはあつた。彼は其処《そこ》で、いくらかの性慾の好奇心を満足させたばかりで、気持ちに何の纏綿《てんめん》をも持てなかつた。むしろ、より多くみだり[#「みだり」に傍点]がまし
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