えになつてしまふ。宗右衛門のこの噂《うわさ》は、いつ、どの辺から起つたのか、どれだけの時間を経て屋敷全体に拡がつたものか判らないが、兎《と》に角《かく》今までにない確実性と普遍性とを持つてゐる。その上一同の者に、これほど直接に関係する話題はなかつた。
山城屋宗右衛門のその一瞥《いちべつ》で、屋敷の隅々までも見透すほどの鋭い眼光は、彼が江戸諸大名の御用商人として、一代に巨万の富をかち得た偉《すぐ》れた彼の商魂によつて磨き出されたものである。彼が次第に老齢を加へて来ても、容易に衰へなかつたその眼光が、にはかに鈍つた原因として誰も否定し得ない出来事――山城屋の家庭の幸福を根こそぎ抜き散らしてしまつた悲惨な出来事が、最近突然山城屋へ現はれた。
宗右衛門に二人の娘があつた。上のお小夜《さよ》は楓《かえで》のやうな淋《さび》しさのなかに、どこか艶《なま》めかしさを秘めてゐた。妹のお里はどこまでも派手であでやかであつた。宗右衛門の幸福は、巨万の富を一代にかち得たばかりで満足出来なくて、あの春秋を一時にあつめた美貌《びぼう》を二人まで持つたと人々は羨《うらや》んだ。その二人の娘が――お小夜は十九、
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