つ》の頬《ほお》を感じ初めた。追々、眉《まゆ》を、唇を、鼻を、額《ひたい》を、丸くなだらかな肩の線を、魅惑を湛《たた》へた着物のひだ[#「ひだ」に傍点]を――そして彼の胸は、浅ましくかき乱れて行くばかりであつた。或る日彼が企《くわだ》てた冒険は、たゞ成功しなかつたばかりでなく、殆《ほとん》ど彼を無援の谷に打ち込んだ。
 彼は寺の掃除|婆《ばば》に命じて、画像の前の窓障子《まどしょうじ》をすつかり解放させ、四方を清浄に掃除させて置いた。彼は自分の身をもよく冷水で拭《ふ》き清めた。そしてわざ/\自宅から取り寄せた新らしい肌着を着済ました。
 かげろふも立ち添ふ暖かく晴れた冬の日の正午過であつた。彼は、はつきりと眼を見開いて静《しずか》に女菩薩画像に近づいた。
(はつきり見よ。白日の明光の中にはつきり見て迷夢を醒《さ》ませよ)
 彼は自分の心に厳しく命じた。しん、とした此《こ》の光線の落ち著《つ》きのなかに、穏やかに明るく画像は彼の前に展けた。彼はその前面二尺ばかりに歩を止めて、おもむろに画像を見上げ見下ろした。
 案外な心安さ、そして、爽《さわ》やかな微風が、面《おもて》を払つて、胸も広々と感ずるかと思へた。――二分、三分、五分……と、宗右衛門はかすかな身悶《みもだ》えと共に、壁画の前へ俯伏《うつぶ》してしまつた。彼の体中の精力が、あらゆる快感と恐怖とを伴なつて、何物にか強く引き絞られ、何処《どこ》かへ発散して行くと同時に、壁画は、一層、白昼の大胆な凜々《りり》しさと艶《なま》めきとの魅惑を拡大して、宗右衛門の眉間《みけん》に迫つて来たのであつた。


 それ以来、二三日彼は、胸苦しい熱情にさいなまれて、ろく/\喰べも眠りもしなかつた。そしてそれが漸《ようや》く遠ざかつて行くと彼は腑脱《ふぬ》けのやうになつて行つた。彼は空《から》念仏を唱へながら、滅多《めった》に彼の部屋の外へ出ないため、俄《にわ》かに彼の部屋専用に付けさせた便所へ出入りするやうになつた。部屋では、大方黙りこくつて炉へ炭をくべてゐた。店から帳簿を持つて来る者にも、めつきりうるささうな様子を見せるやうになつた。
 老師の部屋へも彼は殆《ほとん》ど行かなくなつた。老師は却《かえ》つて時々、彼の容子《ようす》を怪《あやし》んで見舞つて来た。が、彼は言葉すくなに炉へ炭をくべてゐた。彼の最近の一つの恥に就いては、
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