絞りが四つと白が七つ、それから瑠璃《るり》色が……」
 老女が小《こ》女によく磨いた真鍮《しんちゅう》の耳盥《みみだらい》を竹椽《たけえん》へ運ばせた。うてなからちぎり取られた紅、紫、瑠璃色、白、絞り咲きなどの朝顔の花が、幾十となく柄《え》を抜いた小傘のやうに、たつぷり張つた耳盥の水面に浮んでゐる。この毎朝のたのしみを老女は若い頃の大名屋敷勤めの間に覚えた。
「あ、お旦那《だんな》が」
 小女が老婢《ろうひ》の後で言つた。皆、水面に集まつてゐた眼をあげた。古いきびら[#「きびら」に傍点]を着た宗右衛門が母屋《おもや》へ通ふ庭の小径《こみち》をゆつくりと歩いて来る。
「お珍らしい」
 老女は顔を皺《しわ》めて微笑した。
「まあ、お父様」
 おとなしいお小夜は、たゞうれしくなつかしかつた。俄《にわ》かに居ずまひを直しにかゝつた。が、敏感なお里は何事か胸にこたへた。お里は、ぢつとしたまゝ黙つてゐた。前庭の一番大きな飛石の上に、宗右衛門は立つて淋《さび》しく微笑した。
「まあ、お珍らしい」
 老女はひたすら宗右衛門を座敷の方へ招じ入れようとした。
 今朝もまた、彼が見る毎《ごと》に二人の娘の美しさは増して行つた。醜い下半部の反比例をますます上半身に現はすのではないか。皮肉の美しさを、ます/\宗右衛門は見せつけられる。美しい娘達の上半身を見る宗右衛門の苦痛は、醜い下半部を見る苦痛と変らなかつた。
 宗右衛門はこの苦痛の為めに、追々《おいおい》娘達の部屋を訪れなくなつたのであつた。母の無いのちの一層たよりない娘達を却《かえ》つて訪ねて来なくなつたのであつた。
「おとふ様、どう遊ばしました」
 お小夜が懐かしげに父親を仰いだ。
「どうも商売の方が忙しくてな。それにお母さんが亡くなつて、家の方もなにやかや……」
 ぢつと眼を伏せてゐるお里を見て、宗右衛門はだまつてしまつた。
「おう、朝顔が綺麗《きれい》だな」
 その耳盥《みみだらい》から少し視線を上げれば、そこにはお小夜の異様な脚部――宗右衛門はぞつとして、逆に老女の顔を見上げた。
「どうだな、二人とも毎日元気かな」
 宗右衛門は四日前の夕方、こゝを訪ねたきりであつた。娘達が忙しいお辻の手から育ての侍女の手に移つてこゝの離れ家《や》に棲《す》み始めて十何年間、朝夕二回の屋敷へ往《ゆ》くさ帰るさ、必ず宗右衛門はこの部屋へ立ち寄つた。
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