着た養女のみち子が、蔵の入口に立ってそう云った。自分の感情はそっちのけに、養母が動揺するのを気味よしとする皮肉なところがあった。「ゆんべもおとといの晩も自分の家へ帰って来ませんとさ」
 新日本音楽の先生の帰ったあと、稽古場にしている土蔵の中の畳敷の小ぢんまりした部屋になおひとり残って、復習《さらい》直しをしていた老妓は、三味線をすぐ下に置くと、内心|口惜《くや》しさが漲《みなぎ》りかけるのを気にも見せず、けろりとした顔を養女に向けた。
「あの男。また、お決まりの癖が出たね」
 長煙管《ながぎせる》で煙草を一ぷく喫《す》って、左の手で袖口を掴《つか》み展《ひら》き、着ている大島の男縞が似合うか似合わないか検《ため》してみる様子をしたのち
「うっちゃってお置き、そうそうはこっちも甘くなってはいられないんだから」
 そして膝の灰をぽんぽんぽんと叩いて、楽譜をゆっくりしまいかけた。いきり立ちでもするかと思った期待を外された養母の態度にみち子はつまらないという顔をして、ラケットを持って近所のコートへ出かけて行った。すぐそのあとで老妓は電気器具屋に電話をかけ、いつもの通り蒔田に柚木の探索を依頼した。遠慮のない相手に向って放つその声には自分が世話をしている青年の手前勝手を詰《なじ》る激しい鋭さが、発声口から聴話器を握っている自分の手に伝わるまでに響いたが、彼女の心の中は不安な脅えがやや情緒的に醗酵《はっこう》して寂しさの微醺《ほろよい》のようなものになって、精神を活溌にしていた。電話器から離れると彼女は
「やっぱり若い者は元気があるね。そうなくちゃ」呟《つぶや》きながら眼がしらにちょっと袖口を当てた。彼女は柚木が逃げる度に、柚木に尊敬の念を持って来た。だがまた彼女は、柚木がもし帰って来なくなったらと想像すると、毎度のことながら取り返しのつかない気がするのである。
 真夏の頃、すでに某女に紹介して俳句を習っている筈の老妓からこの物語の作者に珍らしく、和歌の添削の詠草が届いた。作者はそのとき偶然老妓が以前、和歌の指導の礼に作者に拵《こしら》えてくれた中庭の池の噴水を眺める縁側で食後の涼を納《い》れていたので、そこで取次ぎから詠草を受取って、池の水音を聴きながら、非常な好奇心をもって久しぶりの老妓の詠草を調べてみた。その中に最近の老妓の心境が窺《うかが》える一首があるので紹介する。もっ
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