ない相談のものなのではあるまいか。現実というものは、切れ端は与えるが、全部はいつも眼の前にちらつかせて次々と人間を釣って行くものではなかろうか。
 自分はいつでも、そのことについては諦《あきら》めることが出来る。しかし彼女は諦めということを知らない。その点彼女に不敏なところがあるようだ。だがある場合には不敏なものの方に強味がある。
 たいへんな老女がいたものだ、と柚木は驚いた。何だか甲羅を経て化けかかっているようにも思われた。悲壮な感じにも衝《う》たれたが、また、自分が無謀なその企てに捲《ま》き込まれる嫌な気持ちもあった。出来ることなら老女が自分を乗せかけている果しも知らぬエスカレーターから免れて、つんもりした手製の羽根蒲団のような生活の中に潜《もぐ》り込みたいものだと思った。彼はそういう考えを裁くために、東京から汽車で二時間ほどで行ける海岸の旅館へ来た。そこは蒔田の兄が経営している旅館で、蒔田に頼まれて電気装置を見廻りに来てやったことがある。広い海を控え雲の往来の絶え間ない山があった。こういう自然の間に静思して考えを纏《まと》めようということなど、彼には今までについぞなかったことだ。
 体のよいためか、ここへ来ると、新鮮な魚はうまく、潮を浴びることは快かった。しきりに哄笑《こうしょう》が内部から湧き上って来た。
 第一にそういう無限な憧憬にひかれている老女がそれを意識しないで、刻々のちまちました生活をしているのがおかしかった。それからある種の動物は、ただその周囲の地上に圏の筋をひかれただけで、それを越し得ないというそれのように、柚木はここへ来ても老妓の雰囲気から脱し得られない自分がおかしかった。その中に籠《こ》められているときは重苦しく退屈だが、離れるとなると寂しくなる。それ故に、自然と探し出して貰いたい底心の上に、判り易い旅先を選んで脱走の形式を採っている自分の現状がおかしかった。
 みち子との関係もおかしかった。何が何やら判らないで、一度稲妻のように掠《かす》れ合った。
 滞在一週間ほどすると、電気器具店の蒔田が、老妓から頼まれて、金を持って迎えに来た。蒔田は「面白くないこともあるだろう。早く収入の道を講じて独立するんだね」と云った。
 柚木は連れられて帰った。しかし、彼はこの後、たびたび出奔癖がついた。

「おっかさんまた柚木さんが逃げ出してよ」
 運動服を
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