た。「この青年を相手なら、自分は女の力を精一ぱい出し切れそうだ」とさえ思った。智子の盲目の夫は北田家の一人息子で、既に両親も早逝して、多額の遺産と三木雄の後見は叔父の未亡人に世話されていた。
「あら好いお天気」
 障子《しょうじ》をあけると智子は久しぶりに何の防禦もない娘々した声を立てて仕舞った。だが、直ぐにはっとして後に坐っている夫の三木雄を振り返った。初夏の朝の張りのある陽の光が庭端から胸先上りの丘の斜面に照りつけている。斜面の肌の青草の間に整列している赤松の幹に陽光が反射して、あたりはいや明るみに明るんでいる。その明るみの反映は二人の坐っている屋内にまで射して来た。
「蝉《せみ》が啼き始めるかも知れないわ、今日あたりから」
 智子は再び夫の方を振り向いて見た。夫はまだ何も云わなかった。「好いお天気」の聯想、「蝉」の想像も盲目の自分にはつかないのに妻はまたひとりで燥《はしゃ》いでいるとでも思っているのではなかろうか。三木雄は真直ぐに首は立てているが丘の斜面にめん[#「めん」に傍点]と向けた顔には青白い憂愁の色が掛っている。だが、何というきめの繊い――つまり内部から分泌する世俗的な慾
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