「あなたね。行き合う人がみんなあなたを見返るのよ。」
「…………」
「あなたのお洋服が好くお体に似合うからよ」
「…………」
 三木雄は今までよりも杖を急にせわしく突き初めた。歩調が高まって余計さっさと歩き出した。智子はこの頃少しずつ気むずかしくなった三木雄のことを考えて素直に黙ってついて行った。
 ある丘のなぞえの日当りに来ると三木雄は停ちどまった。
「智子、僕そんなにおかしく見えるか。」
「何云っていらっしゃるの、あなたは、めったにない程お立派ですわ」
「何故人が見る」
「あら先刻私が云ったこと間違ってとってらっしゃるの、何も皮肉じゃないのよ。本当にお立派だから人が振り返るのよ。私、実に好い服地と服屋をあなたに見つけたと思って自慢しようと思って云ったのよ」
「…………」
 三木雄はうなだれた。杖の先が金具ごとぐっと砂交りの赫土にめり込んだ。
「あなたはこの頃少し、ひがみっぽくなってらしったわ……ま、とにかく茲《ここ》へ坐りましょうよ。休みながらお話しましょう」
 智子はやや呆《ほお》けた茅花《つばな》の穂を二三本手でなびけて、その上に大形の白ハンカチを敷いた。そして自分は傍の蓬《よもぎ》の若葉の密生した上へ蹲《うずくま》った。
「恰好《かっこう》が好いとか悪いとか云ったって僕には自分の恰好さえ見えないんだもの」
 三木雄はまだ停っている。智子はもう一ぺん背延びして思い切って三木雄の手を捉えた。
「さ、触ってごらんなさい。あなたのお体がどんなに均整のとれた立派な恰好だか判りますわ。序《ついで》に私のも……智子も今日は青いクレープデシンの服に黄色い春の外套だわ」
 三木雄は、少し顔を赫めながら智子の持ち添える通り手を遣って自分の体や智子の体の恰好にあらんかぎりの触覚を働かせて行った。
「ね、あなたも智子も素晴らしいんだわ、画や彫刻のモデルにされたって素晴らしいんだわ」
「うん、うん」
 目が粗らくて触りの柔い上等のウーステッドの服地から智子の皮膚の一部分へ滑って来た夫の手を智子は一層強く握って一瞬ほっと嬉びに赫らんで行く夫の顔色を視つめたけれど、今度は何故か智子自身がすこし悲しく飽き足りない思いがした。「夫に引きいれられてはいけない」智子は内心きっとなった。そして自分はどこ迄もこの盲青年の暗黒世界を照らす唯一の旗印でなくてはならないものをと気を取り直した。

「このすみれの色が紫だってことはもうすっかり僕に判ってるんだよ。だけど僕の知り度《た》いのは紫ってどんな色か……そればかりではないんだよ。僕は君と結婚したてには夢中で、白だの紅だの青だの黄だのって色彩の名を教わって覚えたろう。だけど、実際はその白や紅や青や黄やが、どんないろ[#「いろ」に傍点]だか判ってやしなかったんだよ」
 三木雄の始の口調は如何にも智子を詰るようだったが中途から思い返したらしく淋しい微笑を口元に泛《うか》べながら云った。
 珍らしく初夏近くまで裏の木戸傍に咲き残っていた菫《すみれ》の一束を摘んだ夜、智子は食後の夫の少しほてったような掌にその一摘みのすみれの花を載せてやった。その紫のいろが、またしても夫の憂いの種になろうとは思わなかった。
 智子はふとアンドレ・ジイド作の田園の交響楽の一節を思い出した。
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盲目少女ジェルトリウド「でも白、白は何に似ているかあたしには分りませんわ」
聞かれた牧師「……白はね、すべての音が一緒になって昂まったその最高音さ、恰度《ちょうど》、黒が暗さの極限であるように……」
[#ここで字下げ終わり]
がこれではジェルトリウドが納得出来ないと同じように自分にも満足が行かなかった。
 智子はこれと同じ場合に置かれている自分を知ってはらはらと涙を流した。
「今にだんだんだんだん色々なこと分るようにして上げますわ」
 智子は心に絶望に近いものを感じながら、こんなお座なりを云ったことが肌寒いように感じられて夫の方を今更ながら振り返った。悲しみをじっと堪えるように体を固くしている夫の姿が火の下で半身空虚の世界を覗いている様に見えた。
 智子は、だんだん眼開きの世界の現象を夫に語るのを遠慮し始めた。夫は其処から始めのうちの歓喜とは反対に追々焦燥と悩みをばかり受け取るようになった。鳥や虫や花の模型を土で拡大して造らせることも控え勝ちになった。夫は仕舞いには撫《な》でて見るその虫の這う処、その鳥類の飛躍する様子――もっと困ったことにはふだん按撫によってばかり知っている愛する智子の姿勢の歩行する動作までがはっきり見度い念願に駆られて来た。
 智子は危機の来たのを感じた。智識を与えるほどその体験が無いために疑いや僻《ひがみ》を増して来る。闇に住む人間と明るみに住む人間との矛盾と反撥、そしてその矛盾や反撥には愛という粘り強い糸が
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