明暗
岡本かの子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)喪《うしな》った
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)積雪|皓々《こうこう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)えて[#「えて」に傍点]
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智子が、盲目の青年北田三木雄に嫁いだことは、親戚や友人たちを驚かした。
「ああいう能力に自信のある女はえて[#「えて」に傍点]物好きなことをするものだ」
「男女の親和力というものは別ですわ。夫婦になるのは美学のためじゃあるまいし」
批評まちまちであった。
智子は、今から五年まえに高等女学校を卒業した。兄の道太郎と共に早く両親を喪《うしな》った彼女は、卒業後も、しばらく家で唯一の女手として兄の面倒を見ていた。去年の暮、兄は鈴子という智子とは同じ女学校の下級生を妻に迎えたので、どうやら今度は自分の結婚の番になった。
嫂《あによめ》の鈴子の兄は豊雄といって、×大出の若手の医者である。智子と新しく親戚関係になったこの青年紳士は、目的あって、せっせと智子と交際し出した。そして誰が見ても、二人は好配偶だった。殆《ほとん》ど同時に仲人を介して結婚を申し込んでいる智子の家と同じ地主仲間の北田家の当主三木雄は盲目青年の上、教育もなし、まるで周囲の問題にされていなかった。
智子も始は、若年の医者豊雄に好感を持っていた。濶達《かったつ》明朗で、智識と趣味も豊かに人生の足取りを爽《さわや》かに運んで行く、この青年紳士は、結婚して共に暮して行くのに華々しく楽しそうだった。しかし彼が持っている円滑で自在な魂は、かならずしも、人生の伴侶《はんりょ》として特に自分を指名する切実性を持つ魂とは受取れなくなった。美人で才能ある女なら誰でもよさそうだった。ひょっとすると、彼の通俗な魂は勢逞《いさ》ましいだけに、智子が自分の大切にしている一つの性情を、幸福の形で圧し潰《つぶ》してしまいそうに思われた。
それに引きかえ、同じ姻戚《いんせき》の盲目青年北田三木雄の頼りなく無垢《むく》なこころは姿に現れていて、ある日智子は絶えて久しい武蔵野の北田家を訪ねて、殆ど初対面のような三木雄を一目見て、すぐ、運命に対する清らかな忿懣《ふんまん》を感じ、女性のいのちの底からいじらしさをゆり動かされるのを感じた。抛《ほう》っては置けない情熱を感じた。「この青年を相手なら、自分は女の力を精一ぱい出し切れそうだ」とさえ思った。智子の盲目の夫は北田家の一人息子で、既に両親も早逝して、多額の遺産と三木雄の後見は叔父の未亡人に世話されていた。
「あら好いお天気」
障子《しょうじ》をあけると智子は久しぶりに何の防禦もない娘々した声を立てて仕舞った。だが、直ぐにはっとして後に坐っている夫の三木雄を振り返った。初夏の朝の張りのある陽の光が庭端から胸先上りの丘の斜面に照りつけている。斜面の肌の青草の間に整列している赤松の幹に陽光が反射して、あたりはいや明るみに明るんでいる。その明るみの反映は二人の坐っている屋内にまで射して来た。
「蝉《せみ》が啼き始めるかも知れないわ、今日あたりから」
智子は再び夫の方を振り向いて見た。夫はまだ何も云わなかった。「好いお天気」の聯想、「蝉」の想像も盲目の自分にはつかないのに妻はまたひとりで燥《はしゃ》いでいるとでも思っているのではなかろうか。三木雄は真直ぐに首は立てているが丘の斜面にめん[#「めん」に傍点]と向けた顔には青白い憂愁の色が掛っている。だが、何というきめの繊い――つまり内部から分泌する世俗的な慾望が現世のそれに適合するものと一度もその上で接触し合ったことのない浄らかな夫の顔の皮膚である。「坐るときには一番こうしているのが姿勢を保ち易いものよ」と智子が教えたとおりをそのまま、三木雄はやや荒い紬絣《つむぎかすり》の単衣《ひとえ》の前をきちんと揃《そろ》えて坐った膝の上に両手を揃えてかしこ[#「かしこ」に傍点]まっている。律義に組み合せた手の片一方に細く光る結婚指輪も、智子自身が新婚旅行のホテルの一室で、旅鞄から取り出して三木雄の指につけてやったものである。
「そうそう、蝉のこと今、私が云いましたわね。蝉の形、また、粘土で造らせて上げますわね」
ここまで云うと三木雄は輪廓の大きな黒眼鏡の上にまで延びた眉毛を一層広々延べ、まだいくらか残っている子供らしい声音を交ぜて、「ああ」と返事をした。けれど、それも以前程はっきりした歓喜の表現ではなくなっていた。蝉の形、蛇の形、蛙の形、猿の形、犬の形……これは盲目の夫の眼に見えぬ世界の生き物を拡大して粘土やセルロイドで造らせ、夫の触覚に試しては、妻智子の楽しみともするのであった。
今年の二月三木雄と結婚した智子はあれ程ヒロイックな覚悟と感動
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