とを持って三木雄との生活にはいったのであるけれど、いよいよ夫となり妻となった生活には其処《そこ》に盲の夫の暗黒の世界と妻の開明な世界との差が直ぐ生じて、それはむしろ智子の方へ余計積極的な苦労となったのである。夫は新しい妻の世界に手頼《たよ》っていればまず好かった。妻はしかし、未知な夫の盲目の世界にまで探り入らねばならなかった。
三木雄は、その生理作用にも依るものか、性質もぐっと内向的で、その焦点に可成り鬱屈した熱情を潜めていた。そして智識慾も、探求心も相当激しいにも拘《かかわ》らず、今まで余り開拓されず、無教養のままに打ち捨てられていたのに智子は驚いた。結婚前智子は二三度武蔵野の大地主であった三木雄の父の遺した田舎の邸宅へ三木雄を訪れ、其処に後見やら家政婦やらを兼ねていた中老の叔母からもよくもてなされ、その叔母さんの淡泊な性質はむしろ好んで来たのであるが、三木雄の教養に対する叔母さんの無頓着さには呆《あき》れて聊《いささ》か腹立たしくさえ感じた。或時、叔母さんに智子はそれとなく詰《なじ》った。すると叔母さんは例の男のような淡泊笑いをした。
「でも智さん、三木ちゃんには財産がどっさりあるものな、なまじっかお盲目《めくら》さんの物識りになんかさせないでね、ぼんやり長生きさせたいからな。何にも三木ちゃんは知らなくっても千年万年喰べはぐれはないからね」
新婚旅行に三木雄と智子は熱海へ行った。三木雄はまだ白梅が白いということや、その時咲き盛っていた椿の花というものが、紅いのか黒いのかさえよくわきまえていなかったのに智子はまず驚いた。誰も、この暗黒の処女地へ足を踏み入れた者はなかったのである。この処女地もまた暗黒の世界をそのままに黙ってかたく外界との境界線を閉していたのかも知れなかった。
結婚は、異性の愛は、妻を得た歓喜は、一時に三木雄の知性までを、青春の熱情と共に目醒めさせたものであろうか。しかも、三木雄の智性や熱情は如何《いか》にも品格と密度を備えていた。智子の最初の片輪に対する同情は追い追い三木雄への尊敬と変り、三木雄の暗黒世界を開拓する苦労を智子は悦楽にさえ感じて来た。
海は蒼く、空も、そして梅は白く、椿は紅い。
まず、熱海でこれを智子は一心に三木雄に教えた。
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海は蒼く空も
そして梅は白く
椿、くれない
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