た。「この青年を相手なら、自分は女の力を精一ぱい出し切れそうだ」とさえ思った。智子の盲目の夫は北田家の一人息子で、既に両親も早逝して、多額の遺産と三木雄の後見は叔父の未亡人に世話されていた。
「あら好いお天気」
 障子《しょうじ》をあけると智子は久しぶりに何の防禦もない娘々した声を立てて仕舞った。だが、直ぐにはっとして後に坐っている夫の三木雄を振り返った。初夏の朝の張りのある陽の光が庭端から胸先上りの丘の斜面に照りつけている。斜面の肌の青草の間に整列している赤松の幹に陽光が反射して、あたりはいや明るみに明るんでいる。その明るみの反映は二人の坐っている屋内にまで射して来た。
「蝉《せみ》が啼き始めるかも知れないわ、今日あたりから」
 智子は再び夫の方を振り向いて見た。夫はまだ何も云わなかった。「好いお天気」の聯想、「蝉」の想像も盲目の自分にはつかないのに妻はまたひとりで燥《はしゃ》いでいるとでも思っているのではなかろうか。三木雄は真直ぐに首は立てているが丘の斜面にめん[#「めん」に傍点]と向けた顔には青白い憂愁の色が掛っている。だが、何というきめの繊い――つまり内部から分泌する世俗的な慾望が現世のそれに適合するものと一度もその上で接触し合ったことのない浄らかな夫の顔の皮膚である。「坐るときには一番こうしているのが姿勢を保ち易いものよ」と智子が教えたとおりをそのまま、三木雄はやや荒い紬絣《つむぎかすり》の単衣《ひとえ》の前をきちんと揃《そろ》えて坐った膝の上に両手を揃えてかしこ[#「かしこ」に傍点]まっている。律義に組み合せた手の片一方に細く光る結婚指輪も、智子自身が新婚旅行のホテルの一室で、旅鞄から取り出して三木雄の指につけてやったものである。
「そうそう、蝉のこと今、私が云いましたわね。蝉の形、また、粘土で造らせて上げますわね」
 ここまで云うと三木雄は輪廓の大きな黒眼鏡の上にまで延びた眉毛を一層広々延べ、まだいくらか残っている子供らしい声音を交ぜて、「ああ」と返事をした。けれど、それも以前程はっきりした歓喜の表現ではなくなっていた。蝉の形、蛇の形、蛙の形、猿の形、犬の形……これは盲目の夫の眼に見えぬ世界の生き物を拡大して粘土やセルロイドで造らせ、夫の触覚に試しては、妻智子の楽しみともするのであった。

 今年の二月三木雄と結婚した智子はあれ程ヒロイックな覚悟と感動
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