す妨げのものであった。この翳が心路の妨げをなすことはただ[#「ただ」に傍点]人同志の間にもあることであろう。危む相手にまごころをば俄《にわか》にはうち出しにくい。
翁は謙遜《けんそん》な人であった。たとえ長寿を保つことに自在を得ているにしろ、翁は人並を欲した。翁はこの時代の人寿のほどを慮《おもんばか》っておよそこれに做《なら》おうとした。その目安をもって計るに、もはやわが期すべき死は生き行きつつあるいまの日よりだいぶ前に過ぎ越している。翁は苦笑しながら直ちにも雲を変じ巌に化しても大事ないとは思った。しかし人間に居し人情を湛えた生涯を尽す最後の思い出にはどうか東国に送った二人のこどもの身の上を見定めてからのことにしたいと考えた。すでに死を期しては月色に冴えまさり行く翁の心丹に一ひら未練の情がうす紅色に冴え残った。翁は意識にこれを認めると、ぽたりぽたりと涙を零した。
翁は、螺の腹にえび蔓の背をしたまま旅の餉《かれいい》を背負い、杖を手にして東路に向った。妻は早く死に、陽のさす暖い山ふところの香高い橘の木の根方に泰《やす》らかに葬ってある。もはやうしろ髪ひかるる思いのものは西国には何もの
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