の上に幾たびかの春秋が過ぎた。けれども、翁の齢《よわい》の老《おい》に老の重なるしるしらしいものは見えなかった。翁は相変わらず螺の腹にえび[#「えび」に傍点]蔓の背をしてこそおれ、達者で、あさけ夕凪には戸外へ出て、山々の方を眺めた。そして心の中で、わが眷属は、分身は、性格の一面は、と想った。想う刹那《せつな》に、山々の方から健在のしるしの応《うけ》答えが翁の胸をときめかすことによって受取られた。翁は手をその方へ掲げて、彼等を祝福した。
 ただ東国の方へ遺った、まだ見ぬ山に棲める筈の姉と弟の方からは、翁のこれほどの血の愛の合図をもってしても何の感応道交も無かった。翁は白い眉を憂げに潜め
「除汝《なおきて》、除汝《なおきて》、はや」
 そういって力なく戸の中に戻った。
 空間といえども自然の支配下のものであろう。自然に冥通を得た翁の、僅にあずまと離れた空間の隔りに在る二人のいとし子に冥通の懸橋をさし懸けられぬいわれはなかった。だが翁の心に於て、まず最初に、こどもの存否を気遣う疑念があった。懐疑、躊躇《ちゅうちょ》、不信、探りごころ――こういう寒雲の翳は、冥通の取持つ善鬼たちが特に働きを鈍ら
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