過ぎた。
その山は北の方から南へ向けて走る大きな山脈の、脈端には違いないのだが、繋がる脈絡の山系はあまりに低いので、広い野に突禿《とつとく》として擡《もた》げ出された独立の山塊にしか見えない。母体の山脈は、あとに退き、うすれ日に透け、またはむれ雲の間から薔薇色に山襞《やまひだ》を刻んで展望図の背景を護っていた。
平野のどこからも眺められるその山は、朝は藍に、昼はよもぎ色に、夕は紫に色を変えた。山の祖神の翁は、夕の紫の山をいちばん愛した。
翁が、草の茵《しとね》に座って、しずかにその暮山を眺めやるとき、山のむらさきから、事実、ほのかで甘く、人に懐き寄る菫の花の匂いを翁の嗅覚は感じた。
翁は眼を細めて
「山近し、山近し」
と呟いた。
その言葉は、翁が福慈神に近付くとき胸に叫んだと同じ言葉ではあるが、翁はただ呟いただけで山に急ぐこころは無かった。その山は急いで近寄らなければ様子が判らないというような山容ではなかった。離れて眺めているだけでも懐しみは通う山の姿、色合いだった。むしろ近付いたら却って興醒めのしそうな懸念もある遠見のよさそうな媚態《びたい》がこの山には少しあった。
広
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