夢中で狂気染みた沙汰を醒めて冷く指摘されたように、口|銜《くぐま》り、みると額に冷汗までかいている。「この大根、嫁かずであれ、――今に」そういうかと思うと、たちまち、男はまた、不器用にも俊敏に去った。
女は、何となく本意なく、富士の高嶺を見上げた。その姿は、いま眼のまえに横っている小雄鹿の死と同じ静謐さをもって、聳えて揺り据っている。今日も鳥が渡っている。
男はそのかみ、神武御東征のとき、偽者《にしもの》土蜘蛛と呼ばれ、来目《くめ》の子等によって征服されて帰順した、一党の裔《すえ》であった。その祖先は天富命《あめのとみのみこと》が斎部の諸氏《もろうじ》を従え、沃壌地《よきところ》を求《ま》き、遥に、東国の安房の地に拓務を図ったのに、加えられて、東国に来り住んだ。種族の血を享けてか、情熱と肉体の逞しさだけあって、智慧は足りない方だった。彼は強いままに当時の上司の命を受けて、東国の界隈の土蜘蛛の残りの裔を討伐に向った。たまたまこの佐賀牟の国の富士の山麓まで遠征した。
一方女は水無瀬女と獣の神の若者との間から生れ出て多くの門裔がこの麓の地に蔓《はびこ》ったその宗家の娘であった。祖先の水無瀬女から何代か数知れぬ継承の間に、宗家は衰え派出した分家、また分家の方が栄えた。どういうわけであろう。界隈の昇華した名家々々の流れを相互に婚姻を交えている間に、家の人間に土より生い立てる本能の慾望を欠き、夢以外に食慾が持てない咀嚼力の精神になってしまったのも原因の一つであろう。この女も人情のことは何でも判っていて、あまり判り過ぎるが故に、男に興味が持てなくなったという側の女となってしまっていた。
ところがこの頃、湧玉の水のほとりで、度び度び遇う男は、女の醒めたものを攪乱する野太く、血熱いものを持っている。下品で嫌だなと思いながら、無ければ寂しい気がする。そして興味を牽いて救われるのは、その男が唖者のように表現の途を得ないで、いろいろに感情の内爆や側爆のこういう所作をすることである。
それから後も、男は、得意の弓矢の業をもって、麓に住む荒い獣を半殺しの程度にして狩り取り、湧玉の水のほとりに待受けていて、女を見ると、屠《ほふ》り殺した。
小牛ほどの熊を引ずって来て、それに掌で搏たれ、爪で掻れながら彼は、組打ち、小剣で腹を截り裂いた。截り裂くと同時に、彼は顔をぐわと、腹の腑の中に埋めた。血潮が迸る。彼は頭を腑中に抉《こ》じていたが、すぐ包もののような塊を銜《くわ》え出した。顔中のみか鬚髪まで血みどろになって恐ろしく異様な生ものに見えたと銜えた包もののような塊からも繋る腑の紐からも黒いほどの獣の血が滴った。彼はそうしながら、しょんぼりとして女の前に立つ。これはなんのつもりだろう。すると、不思議に、女は顔蒼ざめさせ体は慄えながら一種の酔心地とならざるを得なかった。生れて始めて力というものが身の中に育まれるのを感じた。
だが女はこの気持を通しての、酔えるままにこの男と融け合ったならどういうところへ行くであろうと危く思う。
女は、そ知らぬ顔をして富士を見上げた。碧い空をうす紫に抽き上げている山の峯の上に相変らず鳥が渡っている。奥深くも静な秋の大山。
女は、所詮、どっちかからいい出さねばならない羽目が近付いているのを悟った。母親も気付いて相手の身分を図《はか》り近頃はぐずぐずいう。しかしこの情熱を生のままでは、たとえこのまま二人は結ばれたにしろ、のちのあくどさ[#「あくどさ」に傍点]が思い遺られる。
その日はやはり「この大根、嫁かずであれ、――今に」といって駆去った男が、その翌日、何にも獣は持たずに水のほとりに来た。女を見ると、矢庭に弓矢を女に向けて張った。男はこの頃の興奮と思い悩みに、いたく痩せ衰え、逞しい胸で息せき切っている。かくしてもまだ口ではいい出せず、弓矢をもって代弁させなければならない、荒い男の高ぶった憶しごころを女ははじめて憐れとみた。
女は、手で止め、ふと思い付き
「朝な朝なこの水に湧く、湧く玉の数を、数え尽しなさったら」
寂《さび》しく笑いながらいった。男は弓矢をそこに抛《ほう》り出し、ぐずぐずと水のほとりに坐した。
富士が生ける証拠に、その鼓動、脈搏を形に於て示すものはたくさんあるが、この湧玉の水もその一つであった。朝日がひむがしの海より出で、山の小額を薔薇色に染めかけるとき、この水の底から湧く泡の玉は特に数が多い。夜中に籠れる歇気を吐くのであろうか、夜中に凝る乳を粒立たすのであろうか、とにかく、この湧玉をみて、そして峯を仰ぐとき、確に山の眼覚めを思わせる。泡の玉は暗い水底より早昧そのものの色である浅黄色の中に、粒白の玉として生れ出で、途中真珠の色に染め做されつつ浮き泡となり水面に踊って散り失す。あなやの間ではあるが
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