若い男は武装して弓矢を持っている。若い女は玉など頸にかけ古びてはいるがちょっとした外出着である。若い男は女をみると、一時|立竦《たちすく》むように佇《とま》り、まさ眼には見られないが、しかし身体中から何かを吸出されるように、見ないわけにはゆかないといった。
女は、自分の前に佇った男は、身体の割に、手足が長くて、むくつけき中に逞しさを蔵している。獣のように毛深い。嫌だなと思うほど、女を撃《う》ち融《とろ》かす分量のものをもっている。女は生れ付きの女の防禦心から眼をわきへ外らした。しかし身体だけは、ちょっと腰を前横へ押出して僅かなしな[#「しな」に傍点]を見せた。池のほとりの桔梗《きちこう》の花の莟《つぼみ》をまさぐる。
しばらく虚々実々、無言にして、天体の日月星辰を運行《めぐ》る中に、新生の惑星が新しく軌道を探すと同じ叡智が二人の中に駈け廻《めぐ》った。
やがて男は、女の機嫌を取るように、ぎごちなく一礼した。
女も、一礼した。
今度は、男は眼に熱情を籠めて、じーっと見入った。女は下態はそのままで、上態は七分通り水の方へ捩じ向け、ふくふく水溜りの底から浮く、泡の湧玉を眺めている。手は所在なさそうに、摘み取った桔梗の枝の莟で、群る渚の秋花を軽くうっている。
男の心の中に、表現し得ずして表現し度い必死の気持が、歯噛みをした。
事実、男の歯はぱりぱりと鳴った。
男は切なく叫ぶ、
「この大根《おおね》、嫁《とつ》かずであれ、――今に」
といい、あとをも見ずに駈け去った。その走り方は、不器用な中に鳥獣のような俊敏さがあった。
女は、きゅっきゅっと上態を屈めて笑った。男が精一杯のやけ[#「やけ」に傍点]力を出して自分をこの蕪野な蔬菜に譬えたのがおかしかった。
女は笑いながら、しかし拵《こしら》えたものでなく、自然に、このことをおかしみ笑える自分を、男に見せられなかったのを残念に思った。そこにすでに男の虚勢を見透し、見透すがゆえに、余裕|綽々《しゃくしゃく》とした自分であることを男に示したかった。その余裕から一層男を焦《じ》らせて、牽付け度い女の持前の罪な罠もあろう。
笑ったあとで、女は富士を見上げた。はつ秋の空にしん[#「しん」に傍点]と静もり返っている。山は自分の気持の底を見抜いていて、それはたいしたことはない、しかしいまの年頃では真面目にやるがよいといっているようでもある。
高い峯を起して、鳥が渡って行く。次に次に。
それは水溜りの泡の湧玉のように無限に尽きない。絶頂をわざわざ越す鳥は純な鷺だけだといわれているが、あの鳥はそうなのか。
女は、
「ばかにしている」
といって、つまらなさそうに、桔梗の莟の枝を水溜りに投込んだ。落魄《おちぶ》れた館へ帰って行った、
二三日経って女はまた湧玉の水のほとりで、男と会った。男は、手頃に傷けてまだ息を残さしてある雄鹿を小脇に抱えていた。女を見出すと、片息の鹿を女の足元に抛り出した。それから身体中が辛痒ゆい毒の歯に噛まれでもするようにくねらせた。眼から鉾を突出すよう女を見入った。
女は思慮分別も融けるような男の息吹きを身体に感じた。しかし前回での男とのめぐり合いののち、富士を眺め上げて、それはただ血の気の做すわざなんだか、もっと深く喰入るべきものがあるような気がしたのを想い出して、自然と抑止するものがあった。
「どうなしたの」
とすずろのように訊いた。女は足元に投出された血だらけの矢の雄鹿を見ても愕かず、少しわきへ寄っただけであった。男の何かしら廻り諄《くど》い所作の道具に使われて、命を失いかけている小雄《さお》鹿を、その男と共に、無駄なことの犠牲になった悲運のものと思うだけだった。ただ、しゅくしゅく鳴きながら苦しみを訴える鹿の眼の懸命に戸惑う瞳の閃きに一点の偽りもないのを見ると掻き抱いてやり度いようだった。
男は口を二三度もぐもぐさしたが、やはりいい出せなかった。女の方が却って男の不器用を察して気ずつない思いを紛《まぎ》らすために、わきを向きながら小さな声で唄った
など 黥《さ》ける利目《とめ》
など 黥《さ》ける利目《とめ》
これは、男の顔を、ちらと見たとき、自然と思い浮べられた歌の文句だった。
この薑《はじかみ》、口疼《ひび》く
男は、叫ぶと猛然、女の代りに鹿に飛びかかって、毛深く逞しい拳を振り上げて、丁々と撃った。すでに傷き片息になっている毛もの[#「もの」に傍点]のこととて、※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》くまもなく四股をくいくいと伸して息絶えた。なべてものの死というものの、何かおかしみがありながら頭を下げずにはいられない神秘を女は見透した。
「なんて、可哀相なことをなさるの」
女は務めのようにそういった。
男は、
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