病房にたわむ花
岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)落付《おちつ》か

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)随分|傷《いた》んで

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
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 春は私がともすれば神経衰弱になる季節であります。何となくいらいらと落付《おちつ》かなかったり、黒くだまり込んで、半日も一日も考えこんだりします。桜が、その上へ、薄明の花の帳《とばり》をめぐらします。優雅な和《なご》やかな、しかし、やはりうち閉《とざ》された重くるしさを感じます。日本の春の桜は人の眉《まゆ》より上にみな咲きます。そして多くは高々と枝をかざして、そこにもここにもかしこにも人を待ちうけます――時にはあまりうるさく執拗《しつよう》に息づまるようななやましさをして桜は私の春の至るところに待ちうけます。こんな神経衰弱者の強迫観念や憂鬱《ゆううつ》感は桜にとって唯《ただ》迷惑でありましょう。しかしそれらは却《かえ》って私が桜を多くめでるのあまり桜の美観が私の深処に徹《てっ》し過ぎての反動かもしれません。かりに桜のない春の国を私は想像して見ます、いかに単調でありましょう。あまり単調で気が狂《くる》おう(※[#感嘆符疑問符、1−8−78])そして日本の桜花の層が、程《ほど》よく、ほどほどにあしらう春のなま温い風手《かざて》は、徒《いたずら》に人の面《おもて》にうちつけに触り淫《みだ》れよう。桜よ、咲け咲け、うるさいまでに咲き満《み》てよ。咲き枝垂《しだれ》よかし。
 だが、まだ私は、桜花に就《つ》いての憂鬱感や強迫観念を語りやめようとするのではありません。
 十年前、私は或《あ》る出来事のために私の神経の一部分の破綻《はたん》を招いたことがありました。私の神経がそのために随分|傷《いた》んでしまいました。その春、私が連れて行かれたその狂院《きょういん》に咲き満ちて居《い》た桜の花のおびただしさ、海か密雲《みつうん》に対するように始め私は茫漠《ぼうばく》として美感にうたれて居るだけでした。が、やがて可憐《かれん》な精神病患者が遊歩《ゆうほ》するのを認めて一種|奇嬌《ききょう》な美の反映をその満庭《まんてい》の桜から受け始めました。無意味ににやにや笑うもの、天を仰《あお》いで合掌《がっしょう》するもの、襦袢《じゅばん》一つとなって、脱いだ着物を、うちかえしうちかえしては眺《なが》むるもの、髪をといたり束《たば》ねたりして小さな手鏡にうつし見るもの、附《つ》き添いに、おとなしく手をとられて常人のごとく安らかに芝生《しばふ》等の上を歩《あゆ》むもの、すべて老若《ろうにゃく》の男女《なんにょ》を合《あわ》せて十人近い患者の群《むれ》が、今しも、病房《びょうぼう》から昼餉《ひるげ》ののちの暫時《しばらく》を茲《ここ》へ遊歩に解放されて居るのだと分《わか》りました。桜花が、しっきりなしにそれらの上へ散りかかります。患者のうちのあるものは、うるさそうにそれを髪から払いのけ、あるものは手を振ってよけました。が多くは、細かい花びらが頬《ほお》を掠《かす》めて胸に入っても、一向《いっこう》無関心でありました。無関心が一層《いっそう》あわれを誘いました。私は、診察の順番を待つ間――一時間近く――うかうかとその場景《じょうけい》に見入って居《お》りました。先刻《せんこく》から、殊《こと》に私の眼をひいた一人の四十前後の男の患者がありました。日露戦争の出征《しゅっせい》軍歌を、くりかえしくりかえし歌っては、庭を巡回《じゅんかい》して居《い》ました、その一回の起点が丁度《ちょうど》私達の立って見て居る廊下《ろうか》の堅牢《けんろう》な硝子《ガラス》扉《とびら》の前なのです。男は其処《そこ》へ来る毎《ごと》に直立して、硝子扉|越《ごし》の私達を見上げ莞爾《かんじ》としては挙手《きょしゅ》の礼をしました。私達もだまって素直に礼を返してやりました。男はそれに満足しまた身を返して広い桜庭を円形に歩み出すのでありました。軍歌は、幅の広いバスで、しかもところどころひどくかすれるのです、それは気のふれたひとの声の特長だとあとで聞きましたが、まことに悲痛に聞《きこ》えました。男は日露戦争中負傷の際に気が狂って以来ずっと茲《ここ》の病房《びょうぼう》の患者であるそうですが、病状は慢性な代《かわ》りに挙措《きょそ》は極めて温和で安全であると聞きました。その可憐《かれん》な男が、私達の前の一回の起点へ来る度《たび》に、一度は一度より増して桜の花片《はなびら》を多く身に着けて来るのでした。とりわけ男の頭へ沢山《たくさん
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