百喩経
岡本かの子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)了恕《りょうじょ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)全部|其処《そこ》から
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+奄」、第3水準1−15−6]
[#…]:返り点
(例)愚人食[#レ]塩喩
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前言
この作は旧作である。仏教は文芸に遠い全々道徳的一遍のものであるかという人に答えるつもりで書いたものである。だが繰り返して云う、この作はやや旧作に属するものである。で、文章の表現が、いくらか前時代のものであると感ぜらるるならば了恕《りょうじょ》して頂き度《た》い。ただ、仏教なる真理を時代に応じてクリエーションして行く者は芸術家と同じ直覚力を持たねばならぬということを、否たとえこの私の作は拙悪であるとしても仏教と文芸はむしろ一如相即のものであるという事を会得《えとく》して頂くならば私の至幸とするところである。
尚《なお》、百喩経《ひゃくゆきょう》は、仏典の比喩経のなかの愚人(仏教語のいわゆる決定性《けつじょうしょう》)の喩《たと》えばかりを集めた条項からその中の幾千を摘出したものである。但し経本には本篇の小標題とその下の僅々二三行の解説のみより点載しては無い。本文は全部|其処《そこ》からヒントを得た作者の創作である。
愚人食[#レ]塩喩
[#ここから3字下げ]
塩で味をつけたうまい料理をよそで御馳走になった愚人がうちへ帰って塩ばかりなめて見たらまずかった。
[#ここで字下げ終わり]
なんにも味の無い男だった。逢うとすぐ帽子を脱《と》ってお辞儀をするような男だった。おまけにおとなしく鼻もかむ。
「すこし塩をつけて喰べてみたらどう」
石膏《せっこう》屋のおかみさんが歯朶子《しだこ》に教えて呉れた。おかみさんは歯朶子に払う助手料を差引く代りに石膏置場の小屋を少し綺麗に掃除して呉れた。
「そうねえ。すこし塩をつけて喰べてみましょう」
歯朶子が返事した。
小屋の真中の勇ましい希臘《ギリシヤ》の彫刻に手鞄を預けて歯朶子と男の逢《あ》い曳《び》き――いきなり歯朶子は男の頬をびしゃり[#「びしゃり」に傍点]と叩いた。そして黙ってすまして居た。
「ひどい。なんの理由もなしに………」
性急にどもり乍《なが》ら男の声は醗酵した。
「あんたがあんまりおとなしいものだからよ。口説《くど》いたのよ。ここのうちの青熊が」
「青熊というのはここのうちの主人ですね。よろしい」
男の略図のような単純な五臓六腑が生れてはじめて食物を送る為以外に蠕動《ぜんどう》するのが歯朶子に見えた。男は慄《ふる》える唇を前歯の裏でおさえていった。
「僕はここにある石膏をみんな壊してやる。それからあなたの職業を外の家にきっと探して来る」
その次におかみさんに逢ったとき歯朶子はいった。
「ありがとう。塩はほんとうに利いてよ。あの人に情が出てよ」
おかみさんは前に自分の云ったことを忘れて居た。そして歯朶子からはなしの全部を聞いて驚いて仕舞った。
「あたしゃ、でたらめに塩をつけたらと云ったのに、あんたはほんとうに塩をつけて喰べたのね。なるほど男に塩をつけるってそうするものなのね」
その晩おかみさんは亭主に云った。
「へんなことがあるんだよ。おまえさん。歯朶子の情人があたしのようなものを口説くんだよ。本気でだよ」
安ウイスキーを嘗《な》めて居た亭主は全身に興味の鱗《うろこ》を逆立てた。
「そいつあ、面白えな。色魔だな。うまく煽《おだ》てて石膏の一つも売りつけてやれ。売りつけねえと承知しねえぞ」
その翌朝いやいや亭主に連れられて売付ける石膏を極《き》めに物置へ行ったかみさんは、勇ましい希臘の武将の石膏像の一つが壊されて居るのを発見した――ごく臆病に肩の先だけちょっと。
愚人集[#二]牛乳[#一]喩
[#ここから3字下げ]
愚人は客が来るまで日々の牛乳を搾《しぼ》らないで女牛の体内にためて置くつもりだった。いよいよ客が来た時愚人は女牛の乳をしぼったがやはり一日分しか出なかった。
[#ここで字下げ終わり]
夫の愛は日に日に新鮮だった。血の気を増す苜蓿《うまごやし》の匂いがした。肌目《きめ》のつんだネルのつやをして居た。甘さは物足りないところで控えた。
それで保志子は夫の愛を牛乳に感じて宜《よ》かった。
新婚後十月目。
めずらしく三つ押し並んだ休日があった。東京の実家の妹達が泊りがけで遊びに来ると知らせてよこした。そのしらせ通りの日になるまでにはあと六つ黄ろい秋の日が間に並んで挟まって居た。
夫の自分への愛を保志子は妹達にも見知らせて置き度かった。飲んで内壁から吸収する幸福を気付かせて置くことは嫁入前の妹達に結婚衛生学の助講にもなる。
だが若い妹達に、まだ男の愛を肌地《きじ》のよしあしで品さだめしない娘たちに、はたしてじぶんの夫の愛情のようなものが判るかしらん。牛乳の味が判るかしらん。いまだに彼女等がハリウッドへスターのサインを貰う為めに手紙を鵞《が》ペンでなぞりなぞり書いてるような娘たちであったらこりゃむずかしい。こりゃ、肌地より分量で示すよりほかあるまい。
保志子は夫に頼んだ。
「これから向う五日間よ。なるたけ愛を節約してね。けれど妹たちが来たらその溜めといた分を思う存分あたしの上に使ってね。使って見せてね」
髪の薄い夫はよしよしといった。
樟脳《しょうのう》とナフタリンの匂いのするスカートと花模様の袂《たもと》がごちゃごちゃに玄関で賑わって六日目の朝、妹たちが到着した。
「あたしが一番よ」
「あたしが一番よ」
二番目の妹と三番目の妹とは息をはあはあ云わせ乍らこんなことを争って居る。停車場から馳けっこをして来たのだ。
相変らずこんな娘達だ。その用意しといて宜かった、と保志子は思った。
「早くお上んなさいな。ざっとお湯を使って直ぐ御飯よ」
その間にも保志子は夫が五日溜めた愛情の今こそ肩に胸に一度に降り注がれるのを待って身構えた。
「この柿、たいへん、おいしい。半分やろうか」
夫の愛の分量は、やっぱり一日分だけのものしか出なかった。保志子が望むほど濃くも多くもなって居なかった。それよりも妹たちは、初めて来た姉の家の茶の間や庭先を見廻すのに気をとられて居た。それに飽きると今度は姉の夫をすぐバット細工の友達にして仕舞った。
「牛乳は牝牛の腹には――と保志子は考えた――溜めて置かれないものね」
三重楼喩
[#ここから3字下げ]
愚な富豪が木匠を呼んで三重楼を建て度いが、自分は三重楼の下の二層は要らない、上一層だけが欲しいと云った。
[#ここで字下げ終わり]
「あの土台も作らず、あの胴も作らず、あのほっそりした塔の頂上だけをあの高さに於《おい》て作りたいものだと考えて見なさい」
セーヌ河の中の島でむく犬のリックとラックに向うから遊で飽かれて仕舞った老人で食扶持《くいぶち》の年金は独逸《ドイツ》の償金で支払われて居るのがエッフェル塔を指してこういった。
「そうすると、その不可能を可能にしようとする苦しみの間から人間の情緒が汗のように出るね。勇気、失望、狡猾《こうかつ》、落胆、負け惜しみ、慰め――その間には叩かれた女の掌のやきもち筋も見えるよ。どこかへ生み落したはずと思う子供の片えくぼも出るよ。うっかり余分にやって黙って取られて仕舞った稿銭のたかも思い出すよ。だが、結局、そんなものも焼きつくしてしまってときどき花火のようなものが光るね。鏡を陽に当てて焦点を眼玉のなかへ射込ませる。あんなやわ[#「やわ」に傍点]なものじゃないよ。眩《まぶ》しいのが口のなかまで押込んで来て息が出来なくなるんだよ。おまえさんその時、きっとあっ[#「あっ」に傍点]というね。おまえさん思わず頭を手でうしろから押えなさるかも知れんよ。頭のなかで働かしすぎた智恵の調革《ベルト》が引切れたとでも思いなさってよ。だが、そんなものじゃ無いよ、それは。こっちでも向うでもないんだよ。ちょっと耳をそばへ持って来なさい。小さい声で談《はな》すよ。あれはね猶太《ユダヤ》人のアインスタインが飯の種にしているあの「空間」というものだね、その証拠にはあの火花に頭を持って行かれるときエッフェル塔の頂上だけ土台も胴なかもなくてふんわりあの高さに浮ばせる無理が不思議でなく顕現するんだよ。は は は は は は。おれが思うのには聖オウガスチンという男はあわてものさ。あの火花を見ただけで神様の体まで見てしまったものと早合点したのさ。あれは神様じゃ無いよ。あれは神様の後光だけなんだよ。神様の体なんていものは伊太利《イタリー》の生章魚《いきだこ》のようにその居場所によってその居場所と同じようになっちまうんだから到底見えやしないよ。
そうかい、おまえさん、橋を渡って河岸《かし》を歩いて帰りなさるかい。今日は天気が宜いから曳舟《ひきぶね》から岸壁の環へ洗濯|紐《ひも》を一ぱい張ってあるから歩き憎《にく》いよ。は は は。あすこの釣好きの馬鹿を見なさい。釣った魚を、ポケットへ蔵い込んで大事にボタンを締めたよ」
乗[#レ]船失[#レ]盂喩
[#ここから3字下げ]
或《ある》愚男が海に盂を落した。男は直ちに落した箇所の水流の具合など描き取って置いた。二ヶ月して他国で前に描いて置いた水の具合いに似た海に来た。男は盂を得ようとして其処《そこ》を探して得なかった。
[#ここで字下げ終わり]
浪華《なにわ》の堀を出て淡路の洲本《すもと》の沖を越すころは海は凪《な》いで居た。帆は胸を落ち込ました。乗込客は酒筒など取り出した。女に口三味線を弾かせて膝の丸みを撫で乍らうとうとする年寄りもあった。
陸は近かった。松並木は一重青く浮き出して居た。その幹の間から並んで動いて行く小さい苫屋《とまや》が見えた。あたたかな砂浜には人が多ぜいいかなご[#「いかなご」に傍点]を漁《と》る網を曳いて居た。犬が吠え廻った。
船舷《ふなべり》に頬杖を突いて一眠りした蒔蔵は痺《しび》れたような疲れもすっかり癒《なお》った。やる瀬ない気持ちだけが残った。
「そうだ簪《かんざし》があったのだ、おもかげをしのぼう」
よじれて来る浪頭《なみがしら》を一すくい掌に掬《すく》い取って口にふくみ顔を撫でて新らしい三尺手拭でふいた彼は、眼の前の春の海原のなかに木屋町の白けたきぬぎぬを思い出した。あけ方の廊下は冷たかった。鉛の板のような草履《ぞうり》だった。女は湯も取っては呉れなかった。ただ傍に立っていて欠伸《あくび》をした。女の横顔をせめて別れにしみじみ見て置こうとしたら向うを向いて仕舞った。
「薄情者|奴《め》が横顔さえも惜んだのか。向うむくはずみにわたしの袖《そで》の上へ落ちたのがこの簪なのだが、女は気がつかなかった。わたしはそのまま袖のなかへすべり込ませた。安っぽい銀簪。なんだ菊が彫《ほ》ってある。小癪《こしゃく》にも籬《まがき》が彫ってある。汚い油垢が溜って居る。それで居て、これを見ると恋しいのはどういうわけだ。ままよ嗅いでみてやれ」
捻《ひね》くる拍子に簪を海へ落してしまった。蒔蔵はその時たいして惜しいとも思わなかった。まわりの景色だけに何故かよく気がついた。
「こういうところで女の簪を落したのだな。よし、よく覚えといてやれ」
船は港の泊りを重ねて尾州|蒲郡《がまごおり》へ錨《いかり》を下した。蒔蔵の故郷豊橋へはもう近い。
しかし、彼が木屋町の女に対する恋情は募るばかりだった。それより淡路の海へ落した銀の簪が惜しくてならなくなった。彼が着て居る着物とかえりの旅費ばかりになり、そのほかのあらゆるものを賭けての上方《かみがた》行きの代償は、たったあの銀の簪一本になったのだ。彼をそうさした女のたった一つの形見だったのだ。持って居て一生恨み辛《つら》みを云わねばならぬ。
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