彼の胸は煮えつくして却ってぽかんとして仕舞った。
 浜に網曳く声が聞えた。犬の声も交って居る。青松白砂。蒔蔵は
「ここは淡路じゃ無いぞ。蒲郡だぞ」
 と何遍自分に云って聞かせてもどうしてもここが淡路に見えた。記憶のなかの洲本が消えて仕舞って眼の前に洲本の海がぎらぎらする光と生々しさをもって彼の感覚に迫った。
「簪を返して貰おう」
 畳の目のような小皺《こじわ》を寄らせてねとりねとり透明な肌に媚びを見せて居る海の水を見詰めながら蒔蔵は帯を締め直した。それからずぶと海のなかへ這入《はい》った。簪を得る代りに蒔蔵は海へ命を落した。

     五人買[#レ]婢共使喩

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五人の男が公平に金を出し合って一婢を雇った。一人の男が怒って婢に十鞭を与えると他の四人も権利を主張して婢に十鞭ずつを与えた。
[#ここで字下げ終わり]
 五人で一人の女を雇った。山査子《さんざし》の咲く古い借家に。
 五人は生活費を分担して居た。従って女の給金も頭分けにして払った。それと関係なしに山査子の花は梅の形に咲く。
 平凡な雇女は呼びようもなくて雇主の五人を一々旦那様と呼んだ。でもその呼びかたに多少の特性《キャラクテール》を認めないこともない。
 一人には、あの旦那様。
 一人には、ちょっと旦那様。
 一人には、恐れ入りますが旦那様。
 一人には、いらっしゃいますか旦那様。
 一人には、ただ旦那様。
と呼んだ。
 主人の一人は洗濯物を女に出す。すると他の四人の主人も洗濯物を出す。機会均等。利権等分。彼等には独身もののサラリーマンらしい可憐な経済観念があった。
 洗濯ものは五つ一様にきれいには洗えなかった。かけて干したシャツの袖に山査子の赤黄ろい実の色がこすりついたまま畳まれるようなこともあった。これを見つけた持主の主人は口を尖らして女を叱った。
 すると他の四人も損をしまいと口を尖らして女を叱った。
 叱られた女は、ここに於て主人を恨むべく――
「だが五人を恨むことは――」
 と女は思った。
「わたしらのような女には五人も一度に人を恨むことは出来ない。そういうように心が出来て居ない。やっぱり仇《かたき》を一人にして恨みを突き詰めて行かなければ……で、恨むのは、どの旦那様にしよう」
 思い迷った女は八つ口から赤い手を出したまま裏口に立った。
 そこに指で押しながら考えをまとめるに都合よくさいわい山査子には小さい刺《とげ》があった。

     田夫思[#二]王女[#一]喩

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田夫が貴姫を恋するこころを人に打ち明けた。人は「王女に汝《なんじ》の思いを通じたが汝を王女は嫌いと云った」と告げたにも拘らず田夫は強《し》いても王女に自分を認めさせようとした。
[#ここで字下げ終わり]
「世に美しいものとはこの姫のことか」
 陀堀多は畑の中から輿《こし》の姫を眺めた。彼は今、黒黍《くろきび》を刈っていた。
 金銀の瓔珞《ようらく》、七宝の胸かい、けしの花のような軽い輿。輿を乗せた小さい白象は虹でかがられた毛毬《けまり》のように輝いて居た。輿は象の歩るく度《た》びにうつらうつらと揺れた。
 陀堀多は知らず知らず黍の蔭に身を隠しながら姫の姿を追った。
 本あぜ道は榕樹《ガジュマル》の林へ向っていた。そこまではまだ二三町あった。さいわい黍畑は続いて居た。はるかに瑠璃《るり》色の空を刻み取って雪山の雪が王城の二つ櫓《やぐら》を門歯にして夕栄えに燦《きら》めいて居た。夢のような行列はこれ等の遠景を遊び相手にたゆたいつつ行く。
「あの姫にこのおれを認めさせずに行かせるのは残念だ。姫は二度とこういう田舎《いなか》へは来ないだろう。野の土くれの存在をああいう虹にうつしとめて置くということは――何だか分らないが、一生の生甲斐《いきがい》になるように思える」
 黒黍の蔭を匍《は》ってついて行った陀堀多は、そこで身を伸び上り声を叫ぼうとした。しかし腰は臆して伸びなかった。もう行列の先手は二人ずつ並んで榕樹の林の紫の影に染まって行く。
 肥溜《こえだめ》桶があった。鼬《いたち》の死骸が燐《りん》の色に爛《ただ》れて泡を冠《かぶ》っていた。桶杓《ひしゃく》が膿《う》んだ襤褸《ぼろ》の浮島に刺さって居た。陀堀多はその柄を取上げた。あたり四方へ力一ぱい撒いた。
 風がその匂いを送って危うく榕樹の林へ入りかけようとする姫の嗅覚に届いた、姫は袖で顔を覆った。
 姫に一つの強い感銘を与えたということで陀堀多はほっと満足した。しかし、あの美しいものを不快がらしたと思うといじらしくてならなくなった。
 陀堀多は黍の中で泣いた。

     殺[#二]商主[#一]祀[#レ]天喩

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一隊商が曠野《こうや》で颶風《ぐふう》に遇った時、野神に供《そな》うる人身御供《ひとみごくう》として案内人を殺した。案内人を失った隊商等の運命は如何。
[#ここで字下げ終わり]
 ×××で雇い入れた案内者は不思議な男だった。
「ほんとうの案内者は殺されてから案内する」
 こんなことをいった。みんなは大して気にも留めなかった。一つはこの案内者の見かけが平凡でそこらにざらにある雑種のアラビア人とちっとも違わないし、その上相当に狡《ずる》くもあったのでただ出鱈目《でたらめ》をいう言葉のなかに聞き流した。
 自分の言葉に取り合われぬとき案内者はその平凡な顔の上にかすかな怒りを見せた。
 隊商は出発した。沙漠は無限だった。駱駝《らくだ》の脚の下にむなしく砂が踏まれていると思うような日が幾日も続いた。太陽だけが日に一つずつ空に燃えて滓《かす》になった。
 この広漠たる沙漠のなかを案内者は杖を振り先頭に立って道を進めた。自信のある足取で行路を指揮する権威ある態度の彼は立派な案内者だった。
 砂丘の蔭に石で蓋《ふた》のしてある隠し水の在所も迷うことなく探し宛《あ》てた。太陽が中天に一休みして暑さと砂ほこりにみんなが倦《う》み疲れる頃を見はからい彼は唄をうたった。
[#ここから2字下げ]
いつか一度は
さかなになって
水のお城に水の酒
あの子と二人で水の蚊帳《かや》
ささやれ
涼しい
涼しい
[#ここで字下げ終わり]
 するとみんなも声を揃えて、涼しい、涼しいと合せるのだった。そして唄う面白さを引出して呉れた彼に感謝の拍手をみんなが送る。と、彼は一応うれしそうな顔はするがその後でぽかんとひとり言のようにまたいうのだった。
「ほんとうの案内者は殺されてから案内する」
 みんなは追々《おいおい》彼のこの言葉に何か神秘めくもののあるのに気を付け出した。
 ×××を出発してから十何日目かの午後だった。行手の蒼空《あおぞら》の裾が一点つねられて手垢《てあか》の痕《あと》がついたかと思う間もなくたちまちそれが拡がって、何百里の幅は黄黒い闇になってその中に数え切れぬほどの竜巻きが銀色の髭を振り廻した。頬に痛い熱砂。駱駝は意気地なく屈《かが》んで仕舞った。
 さあ、誰か一人殺さねばならない。隊商の中のみんなが一度にそう思った。そして無気味な顔を見合せた。沙漠のなかで大風に遇うのは天神の怒に触れたものとして隊商のうちの一人を犠牲にして災難を免れるよう祷《いの》らねばならない。このことは誰も知って居た。
 隊商はみな同族だった。お互いがお互いの妻や子を見知って居るような間柄だった。人情として誰一人にも手を加えられなかった。犠牲にするのは異邦人の案内者より他になかった。みんなは案内者を殺した。
 大風は去った。案内者の死骸は鼻の穴も口も砂で一ぱい詰って朽木のように半分地に埋って居た。
 いのちを助かって隊商のみんなは今更砂漠の中で案内者を殺して仕舞った失敗に気がついた。
「どうしよう」
 みんなが口に出して言った。
 当惑。迷いに迷ってみんなが渇《かわ》き死にに死ぬのは眼に見えるようだった。
 困るという感情が強く胸から身体の八方を冷酷に焼け爛らして行くとそのあとへ絶望という空虚が時間も空間も浸み込めない緻密の限りの質を持ち込んでそこを埋める。だが人々は、そのあまりに超人的な冷度に長く堪えては居られない。
 思わずそこから弾ね起きる。みんなは云った。
「これからは、われわれみんなが案内者だ。行けるところまで行こう」
 途端にみんなの胸に浮んだ言葉はあの案内者の口から出たものだった。
 ――ほんとうの案内者は殺されてから案内する――
 しかし、本当に死んでその証《あかし》を見せたこの言葉は殊にこの案内者だけの言葉であったのか、それとも昔から一般案内者の間に伝わって居た一般案内者のうちの或者が或場合に遭遇する運命を予約したものかみんなには判らなかった。彼等はそこから出かけようとして一斉に砂だらけな案内者の平凡な顔を見返した。

     ※[#「口+奄」、第3水準1−15−6][#レ]米決[#レ]口喩

[#ここから3字下げ]
妻の家の米を盗んで口へ入れた男の話。
[#ここで字下げ終わり]
 こういう気持ちを人にいって判るだろうかどうだろうか。またはこういう気持ちは自分だけ変質的に持っていて到底、他人には理解されずに終る果敢《はか》ないものの一つなのか。作太郎は医者の前で涙をぽろぽろ零《こぼ》した。医者は作太郎の膨れた頬に丁寧に麻痺剤を注射した。手術を取捲いた花嫁を前に家族一同が心配そうな顔を並べた。
 結婚後七日目に作太郎は新妻を連れて妻の実家を訪問したのだった。媒酌結婚ではあったが彼はその妻もその実家をも愛して居た。
 程よい富、程よい名望、三棟の土蔵へ通う屋根廊下には旧家らしい薄闇が漂っていた。桟窓からさし込む陽に飴色《あめいろ》の油虫が二三びき光った。
「気味がお悪くは無くて。あたし陰気でこの家好きになれませんでしたわ」
 花嫁の巻子は取做《とりな》し顔にこういった。
 自分が貰った新鮮で健康でカルシュームの匂いのする乙女《おとめ》、それを生むために何代かの人が倹約、常識、忍耐、そういうような胎盤を用意したのだ。そう思うと作太郎はこの実家の一々のものに感謝のこころが湧いた。
「いい家だよ。がっちりしたおっかさんのような家だよ」
 立止まると蕗《ふき》を混ぜた味噌汁の匂いと家畜の寝藁《ねわら》の匂いとしずかに嗅ぎ分けられた。作太郎は廊下や柱や壁をしみじみとした愛感で撫で乍ら歩いた。
 廊下が尽きて土蔵の戸前へ移るところは菜がこぼれて石畳が露出して居た。そこから裏庭へ出て逞しい駝鳥のような鶏を作太郎に見せようという巻子の趣向なのだが下駄が一つしか置いて無かった。巻子はそれを穿くと、もう一つを取りに出た。
 正午前の田舎の日光は廊下の左右の戸口からさし込んで眩《まぶ》しかった。柱に凭《もた》せて洗った米が箕《み》に一ぱい水を切る為に置いてあった。粒米はもう陽に膨れてかすかな虹の湯気を立てて居た。
 動物が穀物に対する本能。それで作太郎は思わず手を出したのだが意識的には一つ巻子の実家のものを無断で貰ってやれ、こういう気持ちに動かされて五本の指先をザクリと米に突込んでその一握りを口に頬張ったのだ。この無断は、咄嗟《とっさ》な振舞いがいかに作太郎をして巻子の実家に対する親愛の念を満足せしめたか、彼は頬のふくれ返った微笑の顔を母家の方へ向けた。途端に巻子が帰って来た。提《さ》げた庭下駄を下に並べる間もなく作太郎の顔を見て彼女は驚いていった。
「あなた。どうかなすったの、頬が――」
 彼女はいままで云いそびれて居たあなた[#「あなた」に傍点]という言葉を思わず使った。
 作太郎は赫《あか》くなってそれから土気色になった。口に一ぱい詰めた生米は程よく乾いていたので少々の唾液では嚥《の》み下せなかった。まして新妻の前で吐き出すことはどうしても出来なかった。さもしい真似と思われそうなので。
 夫の異常を見て巻子が叫声を立てたので一家中の騒ぎとなり作太郎はいよいよバツを悪くし作太郎に苦悶の表情が現われるほど一家の心配を増しとうとう外科医まで招んで来て仕舞った。
 作太郎の頬は麻痺剤の利目が現れてだんだん無感覚
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