になって来た。もうじきそこに刀が突立てられるだろう。そしてその皮膚の切口から喜劇的な粒米がぼろぼろ現れたら世界一恥かしいことだ。
「そのときおれはどうしたら宜いんだろう」
作太郎は眼を瞑って人はどうしてこういうとき死なないのだろうと悔いながら何の救《たす》けも見出されない今の自分を世の中のたった一人の孤独と感じた。
食[#二]半餅[#一]喩
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或人が食に飢え七枚の煎餅《せんべい》を喰べた。だが七枚目を半分喰べた時満腹したので彼は言った、「今の半分の為に私の腹はくちくなったのだ、だから先の六枚は喰べなくてもよかったのに」
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明るい早春のサンルームで愛の忍堪力の試験。
イエツ教授の娘のマーガレットはこういう実験のプランを可愛ゆいとき色の小脳の襞《ひだ》から揉《も》み出して支度《したく》にかかった。――招待状、英国風の朝飯、その朝すこしの風も欲しい。
恋人の三木本は約束の時間にやって来た。オースチンリードで出来合いをすこし直さしたモーニングの突立った肩が黄いろい金鎖草の花房に臆《お》じた挨拶をしながら庭の門を入る。東洋風の鞣革《なめしがわ》の皮膚、鞣革の手の皮膚。その手がそこで急いで本ものの鞣皮の外套を脱ぐ。
苦学の泥の跳ねあとを棘の舌ですっかり嘗めてしまった猫のような青年紳士は蜘蛛《くも》の糸の研究者で内地レントゲン器械製造会社との密約者。
眩しいような白と萌黄《もえぎ》の午前服で男を圧迫しながらマーガレットは爪磨きをして二日目の彫刻的な指先で甘える。
「そのトーストを一枚、苺《いちご》のジャムを塗ってね」
男の忠実に働く手とカフスが六つばかりの銀器に映る。
庭の桜と梨の花が息を詰めて覗く。蒼空を下から持上げようと薔薇色の雲が地平から頭を押し出して見たが重くて駄目。
「こんどは、マルマレードを塗って一枚ね」
承知した男の忠実さとエリザベス朝式の銀器に手とカフスを映すことは前とちっとも変らない。どこかでフォルクダンスのレコードがこどもの靴先に挑みかける間拍子の弾み切ったのが聞える。男は両鬢《りょうびん》の肉と耳を少し動かして聞く。
もう一枚、同じくマルマレードをつけて、もう一枚、もう一枚、もう一枚――マーガレットは男に取って貰って六枚まで喰べた。だが七枚目は
「半分」
と云った。
このとき思わず令嬢の顔を見た三木本の眉の根に面倒と怒りとで挟み上げられた肉の隆起を認めた。だがそれは極めてかすかなものですぐ消えた。
三木本の帰ったあと遅く出た風の送る水仙草の匂いを嗅ぎながら広いサンルームでマーガレットは安楽椅子にくたりとした。彼女は満腹したのが何となくおかしくなり、独りでくくと笑った。それから考えた。
「三木本が悦《よろこ》んで自分に世話をやく程度はトーストパンにすると六枚までである。七枚目には彼は面倒を感ずる。興味ある心理実験。その試験材料をわたしはおなかに喰べた」
彼女はまたおかしくなった。
「それにしても満腹して少しおなかが切ない。あのパンの前の六枚を喰べずに一番あとの七枚目の半分だけで三木本の愛の分量の実験の効果を挙げる方法はなかったものか」
蒼空に乱れ始めた白雲を眺めながら彼女の頭脳の若さはこんな無理をしきりに考えた。
小児得[#二]大亀[#一]喩
この辺で亀は珍らしかった。こどもはそれを捉えた。用心して棒切で押えて縄で縛った。
こどもははじめて見るこの爬虫類を憎んだ、石の箱のなかに首も手足もしまって思い通りにならない。ひっくり返せばそのままひっくり返って居る。こどものリズムとテムポが合わないもどかしい退屈な動物だ。
それにこどもはこの動物を危険な動物とも見た。なにしろ手足に爪が生えている。口には歯もある。危害を隠しているこの醜いものを殺して英雄になり度い気持ちがこどもに強く湧いた。こどもは勇気を揮《ふる》って石を二つ三つ亀の上へ投げて見た。亀は死ななかった。
通りがかりの人があった。
「それは、水のなかへ入れるが宜い。一番早く死ぬ」
こどもにこう教えた。
(おとなというものは真赤な嘘をこどもに信じさせるときにいくらか自分もその気になるものだ。とうとう本当にその気になって仕舞うこともある。)
こどもは亀を池の中へ入れた。背中に模様のある石は一たん水の中に沈んでそれから浮いて水草の間に手足を働かした。
「やあ、苦しんでやがる」
惨虐な少年の性慾は異様な満足を感じた。
おとなの嘘から少年の中に綻《ほころ》びた性慾の赤い蕾は、やがてお町、鏡子、おふゆ、というような女に苦労をさす種となった。
底本:「岡本かの子全集2」ちくま文庫、筑摩書房
1994(平成6)年2月24日第1刷発行
底本の親本:「鶴は病みき」信正社
1936(昭和11)年10月20日発行
初出:「三田文学」
1934(昭和9)年11月号
入力:門田裕志
校正:オサムラヒロ
2008年10月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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