薄情者|奴《め》が横顔さえも惜んだのか。向うむくはずみにわたしの袖《そで》の上へ落ちたのがこの簪なのだが、女は気がつかなかった。わたしはそのまま袖のなかへすべり込ませた。安っぽい銀簪。なんだ菊が彫《ほ》ってある。小癪《こしゃく》にも籬《まがき》が彫ってある。汚い油垢が溜って居る。それで居て、これを見ると恋しいのはどういうわけだ。ままよ嗅いでみてやれ」
 捻《ひね》くる拍子に簪を海へ落してしまった。蒔蔵はその時たいして惜しいとも思わなかった。まわりの景色だけに何故かよく気がついた。
「こういうところで女の簪を落したのだな。よし、よく覚えといてやれ」
 船は港の泊りを重ねて尾州|蒲郡《がまごおり》へ錨《いかり》を下した。蒔蔵の故郷豊橋へはもう近い。
 しかし、彼が木屋町の女に対する恋情は募るばかりだった。それより淡路の海へ落した銀の簪が惜しくてならなくなった。彼が着て居る着物とかえりの旅費ばかりになり、そのほかのあらゆるものを賭けての上方《かみがた》行きの代償は、たったあの銀の簪一本になったのだ。彼をそうさした女のたった一つの形見だったのだ。持って居て一生恨み辛《つら》みを云わねばならぬ。
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