保志子は妹達にも見知らせて置き度かった。飲んで内壁から吸収する幸福を気付かせて置くことは嫁入前の妹達に結婚衛生学の助講にもなる。
 だが若い妹達に、まだ男の愛を肌地《きじ》のよしあしで品さだめしない娘たちに、はたしてじぶんの夫の愛情のようなものが判るかしらん。牛乳の味が判るかしらん。いまだに彼女等がハリウッドへスターのサインを貰う為めに手紙を鵞《が》ペンでなぞりなぞり書いてるような娘たちであったらこりゃむずかしい。こりゃ、肌地より分量で示すよりほかあるまい。
 保志子は夫に頼んだ。
「これから向う五日間よ。なるたけ愛を節約してね。けれど妹たちが来たらその溜めといた分を思う存分あたしの上に使ってね。使って見せてね」
 髪の薄い夫はよしよしといった。
 樟脳《しょうのう》とナフタリンの匂いのするスカートと花模様の袂《たもと》がごちゃごちゃに玄関で賑わって六日目の朝、妹たちが到着した。
「あたしが一番よ」
「あたしが一番よ」
 二番目の妹と三番目の妹とは息をはあはあ云わせ乍らこんなことを争って居る。停車場から馳けっこをして来たのだ。
 相変らずこんな娘達だ。その用意しといて宜かった、と保志子は思った。
「早くお上んなさいな。ざっとお湯を使って直ぐ御飯よ」
 その間にも保志子は夫が五日溜めた愛情の今こそ肩に胸に一度に降り注がれるのを待って身構えた。
「この柿、たいへん、おいしい。半分やろうか」
 夫の愛の分量は、やっぱり一日分だけのものしか出なかった。保志子が望むほど濃くも多くもなって居なかった。それよりも妹たちは、初めて来た姉の家の茶の間や庭先を見廻すのに気をとられて居た。それに飽きると今度は姉の夫をすぐバット細工の友達にして仕舞った。
「牛乳は牝牛の腹には――と保志子は考えた――溜めて置かれないものね」

     三重楼喩

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愚な富豪が木匠を呼んで三重楼を建て度いが、自分は三重楼の下の二層は要らない、上一層だけが欲しいと云った。
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「あの土台も作らず、あの胴も作らず、あのほっそりした塔の頂上だけをあの高さに於《おい》て作りたいものだと考えて見なさい」
 セーヌ河の中の島でむく犬のリックとラックに向うから遊で飽かれて仕舞った老人で食扶持《くいぶち》の年金は独逸《ドイツ》の償金で支払われて居るのがエッフェル塔を指してこういった。
「そうすると、その不可能を可能にしようとする苦しみの間から人間の情緒が汗のように出るね。勇気、失望、狡猾《こうかつ》、落胆、負け惜しみ、慰め――その間には叩かれた女の掌のやきもち筋も見えるよ。どこかへ生み落したはずと思う子供の片えくぼも出るよ。うっかり余分にやって黙って取られて仕舞った稿銭のたかも思い出すよ。だが、結局、そんなものも焼きつくしてしまってときどき花火のようなものが光るね。鏡を陽に当てて焦点を眼玉のなかへ射込ませる。あんなやわ[#「やわ」に傍点]なものじゃないよ。眩《まぶ》しいのが口のなかまで押込んで来て息が出来なくなるんだよ。おまえさんその時、きっとあっ[#「あっ」に傍点]というね。おまえさん思わず頭を手でうしろから押えなさるかも知れんよ。頭のなかで働かしすぎた智恵の調革《ベルト》が引切れたとでも思いなさってよ。だが、そんなものじゃ無いよ、それは。こっちでも向うでもないんだよ。ちょっと耳をそばへ持って来なさい。小さい声で談《はな》すよ。あれはね猶太《ユダヤ》人のアインスタインが飯の種にしているあの「空間」というものだね、その証拠にはあの火花に頭を持って行かれるときエッフェル塔の頂上だけ土台も胴なかもなくてふんわりあの高さに浮ばせる無理が不思議でなく顕現するんだよ。は は は は は は。おれが思うのには聖オウガスチンという男はあわてものさ。あの火花を見ただけで神様の体まで見てしまったものと早合点したのさ。あれは神様じゃ無いよ。あれは神様の後光だけなんだよ。神様の体なんていものは伊太利《イタリー》の生章魚《いきだこ》のようにその居場所によってその居場所と同じようになっちまうんだから到底見えやしないよ。
 そうかい、おまえさん、橋を渡って河岸《かし》を歩いて帰りなさるかい。今日は天気が宜いから曳舟《ひきぶね》から岸壁の環へ洗濯|紐《ひも》を一ぱい張ってあるから歩き憎《にく》いよ。は は は。あすこの釣好きの馬鹿を見なさい。釣った魚を、ポケットへ蔵い込んで大事にボタンを締めたよ」

     乗[#レ]船失[#レ]盂喩

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或《ある》愚男が海に盂を落した。男は直ちに落した箇所の水流の具合など描き取って置いた。二ヶ月して他国で前に描いて置いた水の具合いに似た海に来た。男は盂を得ようとして其処《そこ》を探して得なかった。
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