ばならない。このことは誰も知って居た。
隊商はみな同族だった。お互いがお互いの妻や子を見知って居るような間柄だった。人情として誰一人にも手を加えられなかった。犠牲にするのは異邦人の案内者より他になかった。みんなは案内者を殺した。
大風は去った。案内者の死骸は鼻の穴も口も砂で一ぱい詰って朽木のように半分地に埋って居た。
いのちを助かって隊商のみんなは今更砂漠の中で案内者を殺して仕舞った失敗に気がついた。
「どうしよう」
みんなが口に出して言った。
当惑。迷いに迷ってみんなが渇《かわ》き死にに死ぬのは眼に見えるようだった。
困るという感情が強く胸から身体の八方を冷酷に焼け爛らして行くとそのあとへ絶望という空虚が時間も空間も浸み込めない緻密の限りの質を持ち込んでそこを埋める。だが人々は、そのあまりに超人的な冷度に長く堪えては居られない。
思わずそこから弾ね起きる。みんなは云った。
「これからは、われわれみんなが案内者だ。行けるところまで行こう」
途端にみんなの胸に浮んだ言葉はあの案内者の口から出たものだった。
――ほんとうの案内者は殺されてから案内する――
しかし、本当に死んでその証《あかし》を見せたこの言葉は殊にこの案内者だけの言葉であったのか、それとも昔から一般案内者の間に伝わって居た一般案内者のうちの或者が或場合に遭遇する運命を予約したものかみんなには判らなかった。彼等はそこから出かけようとして一斉に砂だらけな案内者の平凡な顔を見返した。
※[#「口+奄」、第3水準1−15−6][#レ]米決[#レ]口喩
[#ここから3字下げ]
妻の家の米を盗んで口へ入れた男の話。
[#ここで字下げ終わり]
こういう気持ちを人にいって判るだろうかどうだろうか。またはこういう気持ちは自分だけ変質的に持っていて到底、他人には理解されずに終る果敢《はか》ないものの一つなのか。作太郎は医者の前で涙をぽろぽろ零《こぼ》した。医者は作太郎の膨れた頬に丁寧に麻痺剤を注射した。手術を取捲いた花嫁を前に家族一同が心配そうな顔を並べた。
結婚後七日目に作太郎は新妻を連れて妻の実家を訪問したのだった。媒酌結婚ではあったが彼はその妻もその実家をも愛して居た。
程よい富、程よい名望、三棟の土蔵へ通う屋根廊下には旧家らしい薄闇が漂っていた。桟窓からさし込む陽に飴色《あめいろ》の油虫が二三びき光った。
「気味がお悪くは無くて。あたし陰気でこの家好きになれませんでしたわ」
花嫁の巻子は取做《とりな》し顔にこういった。
自分が貰った新鮮で健康でカルシュームの匂いのする乙女《おとめ》、それを生むために何代かの人が倹約、常識、忍耐、そういうような胎盤を用意したのだ。そう思うと作太郎はこの実家の一々のものに感謝のこころが湧いた。
「いい家だよ。がっちりしたおっかさんのような家だよ」
立止まると蕗《ふき》を混ぜた味噌汁の匂いと家畜の寝藁《ねわら》の匂いとしずかに嗅ぎ分けられた。作太郎は廊下や柱や壁をしみじみとした愛感で撫で乍ら歩いた。
廊下が尽きて土蔵の戸前へ移るところは菜がこぼれて石畳が露出して居た。そこから裏庭へ出て逞しい駝鳥のような鶏を作太郎に見せようという巻子の趣向なのだが下駄が一つしか置いて無かった。巻子はそれを穿くと、もう一つを取りに出た。
正午前の田舎の日光は廊下の左右の戸口からさし込んで眩《まぶ》しかった。柱に凭《もた》せて洗った米が箕《み》に一ぱい水を切る為に置いてあった。粒米はもう陽に膨れてかすかな虹の湯気を立てて居た。
動物が穀物に対する本能。それで作太郎は思わず手を出したのだが意識的には一つ巻子の実家のものを無断で貰ってやれ、こういう気持ちに動かされて五本の指先をザクリと米に突込んでその一握りを口に頬張ったのだ。この無断は、咄嗟《とっさ》な振舞いがいかに作太郎をして巻子の実家に対する親愛の念を満足せしめたか、彼は頬のふくれ返った微笑の顔を母家の方へ向けた。途端に巻子が帰って来た。提《さ》げた庭下駄を下に並べる間もなく作太郎の顔を見て彼女は驚いていった。
「あなた。どうかなすったの、頬が――」
彼女はいままで云いそびれて居たあなた[#「あなた」に傍点]という言葉を思わず使った。
作太郎は赫《あか》くなってそれから土気色になった。口に一ぱい詰めた生米は程よく乾いていたので少々の唾液では嚥《の》み下せなかった。まして新妻の前で吐き出すことはどうしても出来なかった。さもしい真似と思われそうなので。
夫の異常を見て巻子が叫声を立てたので一家中の騒ぎとなり作太郎はいよいよバツを悪くし作太郎に苦悶の表情が現われるほど一家の心配を増しとうとう外科医まで招んで来て仕舞った。
作太郎の頬は麻痺剤の利目が現れてだんだん無感覚
前へ
次へ
全7ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング