思わず令嬢の顔を見た三木本の眉の根に面倒と怒りとで挟み上げられた肉の隆起を認めた。だがそれは極めてかすかなものですぐ消えた。
 三木本の帰ったあと遅く出た風の送る水仙草の匂いを嗅ぎながら広いサンルームでマーガレットは安楽椅子にくたりとした。彼女は満腹したのが何となくおかしくなり、独りでくくと笑った。それから考えた。
「三木本が悦《よろこ》んで自分に世話をやく程度はトーストパンにすると六枚までである。七枚目には彼は面倒を感ずる。興味ある心理実験。その試験材料をわたしはおなかに喰べた」
 彼女はまたおかしくなった。
「それにしても満腹して少しおなかが切ない。あのパンの前の六枚を喰べずに一番あとの七枚目の半分だけで三木本の愛の分量の実験の効果を挙げる方法はなかったものか」
 蒼空に乱れ始めた白雲を眺めながら彼女の頭脳の若さはこんな無理をしきりに考えた。

     小児得[#二]大亀[#一]喩

 この辺で亀は珍らしかった。こどもはそれを捉えた。用心して棒切で押えて縄で縛った。
 こどもははじめて見るこの爬虫類を憎んだ、石の箱のなかに首も手足もしまって思い通りにならない。ひっくり返せばそのままひっくり返って居る。こどものリズムとテムポが合わないもどかしい退屈な動物だ。
 それにこどもはこの動物を危険な動物とも見た。なにしろ手足に爪が生えている。口には歯もある。危害を隠しているこの醜いものを殺して英雄になり度い気持ちがこどもに強く湧いた。こどもは勇気を揮《ふる》って石を二つ三つ亀の上へ投げて見た。亀は死ななかった。
 通りがかりの人があった。
「それは、水のなかへ入れるが宜い。一番早く死ぬ」
 こどもにこう教えた。
(おとなというものは真赤な嘘をこどもに信じさせるときにいくらか自分もその気になるものだ。とうとう本当にその気になって仕舞うこともある。)
 こどもは亀を池の中へ入れた。背中に模様のある石は一たん水の中に沈んでそれから浮いて水草の間に手足を働かした。
「やあ、苦しんでやがる」
 惨虐な少年の性慾は異様な満足を感じた。
 おとなの嘘から少年の中に綻《ほころ》びた性慾の赤い蕾は、やがてお町、鏡子、おふゆ、というような女に苦労をさす種となった。



底本:「岡本かの子全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1994(平成6)年2月24日第1刷発行
底本の親本:「鶴は病みき
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