ろ》の油虫が二三びき光った。
「気味がお悪くは無くて。あたし陰気でこの家好きになれませんでしたわ」
 花嫁の巻子は取做《とりな》し顔にこういった。
 自分が貰った新鮮で健康でカルシュームの匂いのする乙女《おとめ》、それを生むために何代かの人が倹約、常識、忍耐、そういうような胎盤を用意したのだ。そう思うと作太郎はこの実家の一々のものに感謝のこころが湧いた。
「いい家だよ。がっちりしたおっかさんのような家だよ」
 立止まると蕗《ふき》を混ぜた味噌汁の匂いと家畜の寝藁《ねわら》の匂いとしずかに嗅ぎ分けられた。作太郎は廊下や柱や壁をしみじみとした愛感で撫で乍ら歩いた。
 廊下が尽きて土蔵の戸前へ移るところは菜がこぼれて石畳が露出して居た。そこから裏庭へ出て逞しい駝鳥のような鶏を作太郎に見せようという巻子の趣向なのだが下駄が一つしか置いて無かった。巻子はそれを穿くと、もう一つを取りに出た。
 正午前の田舎の日光は廊下の左右の戸口からさし込んで眩《まぶ》しかった。柱に凭《もた》せて洗った米が箕《み》に一ぱい水を切る為に置いてあった。粒米はもう陽に膨れてかすかな虹の湯気を立てて居た。
 動物が穀物に対する本能。それで作太郎は思わず手を出したのだが意識的には一つ巻子の実家のものを無断で貰ってやれ、こういう気持ちに動かされて五本の指先をザクリと米に突込んでその一握りを口に頬張ったのだ。この無断は、咄嗟《とっさ》な振舞いがいかに作太郎をして巻子の実家に対する親愛の念を満足せしめたか、彼は頬のふくれ返った微笑の顔を母家の方へ向けた。途端に巻子が帰って来た。提《さ》げた庭下駄を下に並べる間もなく作太郎の顔を見て彼女は驚いていった。
「あなた。どうかなすったの、頬が――」
 彼女はいままで云いそびれて居たあなた[#「あなた」に傍点]という言葉を思わず使った。
 作太郎は赫《あか》くなってそれから土気色になった。口に一ぱい詰めた生米は程よく乾いていたので少々の唾液では嚥《の》み下せなかった。まして新妻の前で吐き出すことはどうしても出来なかった。さもしい真似と思われそうなので。
 夫の異常を見て巻子が叫声を立てたので一家中の騒ぎとなり作太郎はいよいよバツを悪くし作太郎に苦悶の表情が現われるほど一家の心配を増しとうとう外科医まで招んで来て仕舞った。
 作太郎の頬は麻痺剤の利目が現れてだんだん無感覚
前へ 次へ
全13ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 かの子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング