矩男と共に心楽しく武蔵野を味わった。躑躅《つつじ》の古株が崖《がけ》一ぱい蟠居《ばんきょ》している丘から、頂天だけ真白い富士が嶺を眺めさせる場所。ある街道筋の裏に斑々《はんぱん》する孟棕藪《もうそうやぶ》の小径《こみち》を潜《くぐ》ると、かの女の服に翠色が滴り染むかと思われるほど涼しい陰が、都会近くにあることをかの女に知らした。
二人はある時奥沢の九品仏《くほんぶつ》の庭に立った。
「この銀杏《いちょう》が秋になると黄鼈甲《きべっこう》いろにどんより透き通って、空とすれすれな梢《こずえ》に夕月が象眼したように見えることがあります」
おっとりとそんな説明をする時の規矩男の陰に、いつも規矩男から聞いたその母の古典的な美しい俤《おもかげ》も沁々《しみじみ》とかの女に想像された。
これ等の場所は普通武蔵野の名所と云われている感どころより、稍々《やや》外れて、しかも適確に武蔵野の情趣を探らせて呉《く》れるだけに、かの女には余計味わい深かった。こうして歩いているうちに、かの女はもう可成り規矩男に慣れてしまって、規矩男をただよく気のつく、親切な若い案内者ぐらいの無感覚に陥り易《やす》くなった。銀座でむす子の面影をどうしてこの青年の上に肖《に》せて看《み》て取ったのか、不思議に思った。それももう遠い昔の出来事で、記憶の彼方に消えて行って仕舞ったように思えた。だが規矩男は今だにときどきかの女のむす子のことを訊《き》きたがった。
「僕には判る気がしますよ。あなたを妹のように可愛《かわい》がるむす子さん。あなたと性質が似て居て、しかもすっかり表面の違っているむす子さんでしょう」
かの女はむす子のことをこの青年に話すことは、何故かこの頃むす子に対する気持を冒涜《ぼうとく》するように感じて、好まなくなっていた。それを訊かれると同時に、何か違った胸の奥の場所から不安が頭を擡《もた》げて来て、訊《たず》ねられた機会を利用し、逆に規矩男から、少しずつ規矩男の身の上を訊き溜《た》めようとした。
「それよりあなたお母さんに私を逢《あわ》す前に、私に話すことがあると云ったわね。あれ何のこと」彼女は暫《しばら》く考えて、「あれことによったらあなたのラブ・アフェヤーにでも就《つ》いてではなくって」
「なぜ云い当てたんです」
「だってあなたくらい、ませた[#「ませた」に傍点]人、この年までラブ・アフェヤーのない筈《はず》はないもの。それを、今まで私に話さなかったもの。あなたの事情という事情は大がい聞いたあとに、残っているのはそればかりでしょう。しかも一番重大なことだからあとに残したってような、逆順序にしたんでしょう」
「やり切れないな。だがまあ、そうしときましょう。処でその事あんまり貧弱なんで僕恥しいんです」
規矩男は本当に恥じているように見えた。
「それよりも、今日はあなたのその靴木履《くつぽっくり》で、武蔵野の若草を踏んで歩く音をゆっくり聴かして頂くつもりです」
規矩男はわざと気取ってそういうのか、それとも繊細なこういう好みが、元来、彼に潜んでいるためか、探り兼ねるような無表情な声で云って、広い往還を畑地の中へ折れ曲った。其処の蓬若芽《よもぎわかめ》を敷きつめた原へ、規矩男は先にたって踏み入った。長い外国生活をして来てまだ下駄《げた》に馴《な》れないかの女は、靴を木履のように造らせて日本服の時用いるための履きものにしていた。そのゴム裏は、まるで音のないような滑らかな音をひいて、乙女の肌のような若芽の原を渡るのだった。
規矩男が進んで話さない恋愛事件を、あまり追及するのも悪どいと思って、かの女は規矩男が靴木履と云った自分の履きものを、右の足を前に出して、ちょっと眺めた。
「なるほど、靴木履。うまい名前をつけましたね」
台は普通の女用の木履|爪先《つまさき》に丸味をつけて、台や鼻緒と同じ色のフェルトの爪覆《つまおお》いを着せ、底は全部靴形で踏み立つのである。「この履きものおかしいですか。人からじろじろ見られて、とても恥しいことがあるのよ」
「いえ、そんなことありません。だが、あなたは必要上から何事でも率直にやられるようですね、そのことが普通の世間人にずいぶん誤解され勝ちなんでしょう」
かの女は、それは当っていると思った。しかし、真面目《まじめ》に規矩男の洞察に今更感謝する気にもなれなかった。かの女は誤解されても便利の方がいいと思うほど数々受けた誤解から、今や性根を据えさせられていた。かの女は、同情の声にはただ意志を潜めて、ふふふと小さく笑うだけだった。
「オリジナリティがあって立派なものですよ。威張って穿《は》いてお歩きなさいよ。春の郊外の若草の上を踏むのなんかには、とりわけ好いな」
規矩男は一寸《ちょっと》考えてまた云い続けた。「そういうオリジナリティが僕の母なんかにはまるでない」
「なまじいオリジナリティなんかあるのは自分ながら邪魔ですよ」
「そうだ。あなたはご自分の天分でもなんでも、一応は否定して見る癖があるんだな……癖か性質かな。それがあなたをいつも苦しめてるんでしょう。けどそれが図破抜《ずばぬ》けたあなたの知性やロマン性やオリジナリティに陰影をもたせて、むしろ効果を挙げているのではありませんか」
「でもうちの先生は、それが私にどれ程損だかって、いつも云っているのよ」
「先生は実は一番あなたのその内気な処を愛していらっしゃるんじゃないですか……むす子さんも……」
かの女はむす子が巴里《パリ》の街中でも、かの女を引っ抱えるようにして交通を危がり、野呂間《のろま》野呂間《のろま》と叱《しか》りながら、かの女の背中を撫《な》でさするのを想《おも》った。かの女は自分の理論性や熱情を、一応否定したり羞恥心《しゅうちしん》で窪《くぼ》めて見るのを、かの女のスローモーション的な内気と、どこ迄一つのものかは、はっきり判らなかったが、かの女は自分の稚純極まる内気なるものは、かの女の一方の強靱《きょうじん》な知性に対応する一種の白痴性ではないかとも思うのである。かの女が二十歳近くも年齢の違う規矩男と歩いていて殆《ほとん》ど年齢の差も感ぜず、また対者にもそれを感ぜしめない範囲の交感状態も、かの女の稚純な白痴性がかの女の自他に与える一種の麻痺状態《まひじょうたい》ではなかろうかと、かの女は酷《きび》しく自分を批判してみるのである。かの女の肉体(かの女の肉体も事実年齢より十歳以上も若いのだと、かの女の薬にいつも小児散を盛り込む或る医者が云った)か精神のはげしい知性のほかの一個所に非常に白痴的な部分があり、その部分の飛躍がかの女の交感の世界から或る人々を拉《らつ》し来《きた》って、年齢の差別や階級性を自他共に忘れさせる――或る時期からの逸作は、かの女を妻と思うより娘のように愛撫《あいぶ》し、むす子は妹のように労《いたわ》り、現に規矩男という怜悧《れいり》な意志を持つこの若者までが、恰《あたか》も同年輩か寧《むし》ろあるときは年少の女性に向うような態度をかの女にとって当然としている。その他の友達。そしておかしなことにはかの女自身まで――かの女には二十四五歳位からの男女を見ると、むしろ自分より実世界に於ける意志も生活能力も偉《すぐ》れた人のように往々見える。この普通常識から批判すれば痴呆《ちほう》のような甘いお人好しの観念が、時にかの女の知性以上に働いて、かの女を非常に謙遜《けんそん》にしたり、時には反対に人を寛大に感じさせ過ぎてかの女を油断に陥れる……
かの女が黙って考えているのを規矩男は気づかった。
「僕があれ[#「あれ」に傍点]を隠しているのが悪いかしら」
「そうじゃないの。私、時々飛んでもないよそ[#「よそ」に傍点]事をふっと考え込んじまう癖があるのよ」と云っても規矩男はその事とばかり思い込んで、彼の許嫁《いいなずけ》に就《つ》いて語り出した。
「つまり僕のあれは[#「あれは」に傍点]――始めは親達が決めて、あとで恋人同志のような気持になり、今はまた恋がなくなって(僕の方だけで)普通の許嫁と思ってるんですけれど――その女はオリジナリティも熱情もないくせに、内気な所も皆目なくって、その上熱情がある振りをしたがるという風な女です。唯《ただ》取柄なのは、家庭や団体なんかが牛耳《ぎゅうじ》れそうな精力的なところなんですが……僕あそんなもの欲しくないんです」
「そうお。だけど誰のどんな取柄だって、よく見てれば好いものでしょう」
「でも、そう云ってたらきりもありません。人間の好きも嫌いもなくなっちまう」
「まあそれはそうだけど」
往還のアスファルトに響いて多摩川通いのバスが揺れながら来た。かの女等はそれを避けて畑道へそれた。畑地には、ここらから搬出する晩春初夏の菜果が充《み》ちていた。都会人のまちまちな嗜好《しこう》を反映するように、これ等の畑地のなりもの[#「なりもの」に傍点]や野菜は一定していなかった。茄子畑《なずばたけ》があると思えば、すぐ隣に豌豆《えんどう》の畑があった。西洋種の瓜《うり》の膚が緑葉の鱗《うろこ》の間から赤剥《あかむ》けになって覗《のぞ》いていた。畦《あぜ》の玉蜀黍《とうもろこし》の一列で小さく仕切られている畑地畑地からは甘い糖性の匂《にお》いがして、前菜の卓のように蔬菜《そさい》を盛り蒐《あつ》めている。見廻《みまわ》す周囲は松林や市街のあふれらしい人家に取囲まれていて、畑地の中のところどころに、下宿屋をアパート風に改造した家が散在し、二階から人の頭が覗いていた。
散歩の日によって、かの女と規矩男とは気持の位置が上下した。かの女の方が高く上から臨んでいたり、規矩男の方が嵩《かさ》にかかったり――今日は×大学の前で車を乗り捨てて、そこで待ち合せていた規矩男にかの女は気位をリードされ勝ちだった。経験によると、こういう日に規矩男の心は何か焦々と分裂して竦《すくま》って居り、何か分析的にかの女に突っかかるものがあった。何かのはずみでまた許嫁の話になると、規矩男はまるでかの女が無理にその女性を規矩男に押しつけてでもいるような、云いがかりらしい口調を洩《も》らしたり、少しの間かの女がむっつりと俯向《うつむ》いて歩いていると、規矩男はだしぬけに悪党のような口調で云った。
「あなたは一本気のようでそうとう比較癖のある方らしい。僕の女性と巴里のむす子さんのと較《くら》べて考えてらっしゃるんじゃありませんか」
これはかなり子供っぽい権柄《けんぺい》ずくだ。
「どうしたの。そんな云い方をして」
かの女は不快になってたしな[#「たしな」に傍点]めた。
「較べて考えるとすれば、私はあなたの好みとむす子の好みと女性の上では実によく似てると思っていたのよ」
すると規矩男はぽかんとした気を抜いた顔をして、鼻を詰め口を開《あ》けて息をした。
「怒るならあやまりますよ。どうも自分でも今日は気分の調子が取りにくい気がします」規矩男は駄々児《だだっこ》のように頭を振った。
「むす子に女性が出来てるかどうかまだ知らないけれど、私むす子の好きそうな女性を道ででも何処ででも見つけるとみんな欲しくなっちまうの。だけどそのなかに女特有の媒介性が混っているんじゃないかと思って、時々いやあな[#「いやあな」に傍点]気もするのよ」
かの女はむす子ばかりにこだわってるようで規矩男に少し気の毒になり、わざと終りを卑下して云った。
畑のなりもので見えなかったが、近寄ると新しく掘った用水があって、欄干《らんかん》のない橋がかかっていた。水はきれいで薄曇りの空を逆に映して居り、堀の縁には桜の若木が並木に植付けてあって、青年団の名で注意書きの高札が立っていた。
「みんな几帳面《きちょうめん》だなあ」規矩男は女性の問題はもう振り落したように独言を云った。
水を見て、桜木の並木を見て、高札を読んで、空を仰いでから、ちょっと後のかの女を振り返って、規矩男は更に導くように右手の叢《くさむら》の間の小径《こみち》へ入った。そこにはかの女が随《つ》いて行くのを躊躇《ちゅうちょ》した位、藪枯
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