て夫と自分との年齢の差も償えると思っていた。だが夫は毎朝飲むコーヒーだけは、自分で挽《ひ》いて自分でいれる器用な手つきだけのところに、文化人らしい趣を遺《のこ》すだけで、あとは日々ただの村老に燻《くす》んで行った。彼女は従えられ鞣《なめ》されて行った。
「おかしなことには、この都会近くの田舎というものは、市場へ運ばれて売られる野菜や果物同様、住む人間までも生気を都会へ吸い取られて、卑屈に形骸的にならされてしまうのですね」
規矩男は父を斯《こ》うも観察した。女の子が生れてすぐ死に、二番目の規矩男が生れたときは、父親は既にまったく老境に入って、しかも、永年の飲酒生活の結果は、耄《ぼ》けて偏屈にさえなっていた。女盛りの妻の鏡子は、態《わざ》と老けた髪かたちや身なりをして、老夫のお守りをしなければならなかった。(母の幾分|僻《ひが》んだ、ヒステリックな性格も、この頃に養われたらしい)
「父は死ぬ間際は、書斎の窓の外に掘った池へ、書斎の中から釣竿《つりざお》を差し出して、憂鬱《ゆううつ》な顔をして鮒や鮠《はえ》を一日じゅう釣っていましたよ。関節炎で動けなくなっていました。母はもう父に対して癇《かん》の強い子供に対するような、あやなし方をしていました。食事のときに、一杯ずつ与える葡萄酒《ぶどうしゅ》を、父はもう一杯とせがむのを、母は毒だと断るのにいつも喧嘩《けんか》のような騒ぎでした」
中学校から帰って規矩男が挨拶《あいさつ》に行くと、老父はさすがに歓んでにこにこした。そして、「おまえは今から心がけて人生の本ものの味わいを味わわなくちゃいかん」と口癖にいった。それは人生を楽しめという意味に外ならなかった。規矩男には老ぼけて惨な現在の父がそれをいうと、地獄の言葉とよりしか響かなかった。
父が死んで荷を卸した感じに見えた母親は、一方貞淑な未亡人であり乍《なが》ら、いくらか浮々した生活の余裕を採り出した。
「面白いことは」と規矩男は云った。その昔の母の失恋の相手の織田や、いわば彼女の恋仇《こいがたき》である織田の妻が、今は平凡に年とって子供の二三人もあるのと、母は家庭的な交際を始めていることだった、もっとも織田は、その後、財産をすっかり失《な》くしてしまって、土地に自前の雑貨店を営んで、どうやら生活している。彼の知識的の妻も、解放運動などはおくびにも出さなくなり、克明に店や家庭に働いている。規矩男の母は、規矩男の養育の相談相手に、僅《わず》かに頼れる旧知の家として、度々織田の家庭を訪ねるのであった。
規矩男自身と云えば、規矩男は府立×中学を出て一高の×部へ入り、卒業期に肺尖《はいせん》を少し傷めたので、卒業後大学へ行くのを暫《しばら》く遅らして、保養かたがた今は暫く休学しているのだという。だがもう肺尖などとうに治っている。保養とは世間の人に云う上べの言葉で、……と規矩男は稚純に顔を赫《あか》らめながら、やや狡智《こうち》らしく鼻の先だけで笑った。
「ではお父さまの云われた人生の本ものとかを、今からあなたも尋ね始めなさったの」
と、かの女も口許《くちもと》で笑って云えば、規矩男は今度は率直に云った。
「僕は父のように甘い虫の好い考えは持っていませんが……然《しか》し知識慾や感情の発達盛り、働き盛りの僕達の歳として、そう学校にばかりへばりついて行ってても仕方がありませんからね」
「でも大学は時間も少いし呑気《のんき》じゃありませんか」
「それが僕にはそうは行かないんです。僕という奴は、学校へ行き出せば学校の方へ絶対忠実にこびりつかなけりゃいられないような性分なんです。僕自身の性格は比較的複雑で横着にもかなり陰影がある癖に、一ヶ所変な幼稚な優等生型の部分があって……嫌んなっちゃうんで」
規矩男はいくらか又不敵な笑い方をしたが、一層顔を赫らめて、
「ですから自分では、学校なんか三十歳までに出れば好いと思ってるんですが、母や織田達がいろいろ云うんで、或いは今年の秋か来年からまた始め出そうとも思っているんです」
母と一緒に逢《あ》って呉《く》れと規矩男は手紙に書いたこともあったが、その後また一ヶ月ばかりの間に三四回もかの女と連れ立って、武蔵野を案内がてら散歩し乍《なが》ら、たびたび自分の家の近くを行き過ぎるのに、規矩男は自分の家へまだ一度もかの女を連れて行かず、母にも逢せなかった。かの女は規矩男に何か考えがあるのだろうし、かの女も別だん急に規矩男の母に逢い度《た》いとも思わなかったが、ある時何気なく云ってみた。
「あなたいつかの手紙で私にお母さんを逢せるなんて云ってね」
規矩男は少し困って赫くなった。
「あなたが逢って呉れないものですから、僕のような生意気な人間でも、あんな通俗的な手法を使わなくっちゃならなくなったんですね」
「ははあ」
「嫌だ。今ごろあんなことでからかっちゃ。だけれどあなただって、婦人雑誌なんかで、よく、どうしてあなたはあなたのお子さんを教育なさいましたか、なんて問題に答えていらっしゃるじゃありませんか。僕はあれを覚えてていざとなったら母もだし[#「だし」に傍点]につかいかねなかった……」
「そんなに私に逢わなけりゃならなかったの」
「嫌だ。そんなこと、そんなにくどく云っちゃ」
規矩男がますます赫くなるので、かの女はもっとくどくからかい度くなった。
「かりによ。あの時、ではお母さんとご一緒にお出下さい、是非お母さんと……と、私がどうしてもお母さんと一緒でなければお逢いしないと云って上げたらどう?」
「事態がそうなら僕は母と一緒に伺ったかも知れないな」
「そして子供の教育法をお母さんに訊《き》かれるとしたら、規矩男さんの教育係みたいに私はなったのね」
「わははははあ」規矩男は世にも腕白者らしく笑った。
「それも面白かったなあ、わははははあ」
「何ですよ、この人は……そんな大声で笑って」
規矩男は今度は大真面目《おおまじめ》になって、
「だけど運命の趨勢《すうせい》はそうはさせませんね。僕は世の中は大たい妥当に出来上っていると思うんです」
「では妥当であなたと私とはこんなに仲好しになったの」
「そうですとも。僕だってあなただから近づいて来たかったんです……誰が……誰が……あなたでない、よそのお母さんみたいな人に銀座でなんかあとからつけて来られて……およそ気味の悪いばかりだったでしょうよ。或いはぶんなぐってたかもしれやしねえ」
「おやおや、まるで不良青年みたいだ」
「自分だって不良少女のように男のあとなんかつけたくせに」
「じゃあ、私不良少女として不良青年に見込まれた妥当性で、あなたと仲好しにされたわけなのね」
その時、眼路の近くに一重山吹の花の咲き乱れた溝が見えて来た。規矩男はその淡々しく盛り上った山吹の黄金色に瞳《ひとみ》を放ったが、急に真面目な眼をかの女に返して、「あの逸作先生は、そんなお話のよく判る方ですか」とかの女に聞くのであった。
「ええ、判る人ですとも」
「あなた先生を随分尊敬していらっしゃるようですね」
「ええ、尊敬していますとも」
「先生は見たところだけでも随分僕には好感が持てますね……僕、先生が感じ悪い方だったら、あなたもこんなに(と云って規矩男はまた赫くなった)好きになれなかったか知れませんね」
「ではうちの先生も、あなたが私と仲好しになった妥当性の仲間入りね」
「序《ついで》にむす子さんも」
「まあ、ぜいたくな人!」
「ええ、僕あ、ぜいたくな人間……ぜいたくな人間て云われるの嬉《うれ》しいな。どんなに僕の好きな顔や美しい情感や卓越した理智をあなたが持ってたって、嫌な夫や馬鹿な子供なんかの生活構成のなかで出来上っているあなただったら、或いは僕は……」
かの女はそういう規矩男が、自分の愛する夫や子供をまるでその心身の組織に入れているようで、規矩男に対して急に不思議な愛感に襲われた。そして次に、ふっとむす子を思い出し、一瞬ひらめくような自分達の母子情の本質に就《つ》いて考えて見た。「私の原始的な親子本能以上に、私のむす子に対する愛情が、私の詩人的ロマン性の舞台にまで登場し、私の理論性の範囲にまで組織され込んでいる。ぜいたくな母子情だ。この私の母子情が、果して好いものか悪いものか……だが、すべて本質というものは本質そのもので好いのだ。他と違っているからと云って好いも悪いもありはしない」こう考えながらかの女は何故か眼に薄い涙を泛《うか》べていた。規矩男は見てとって、
「僕あんまり云い過ぎました?」
「ううん、云い過ぎたから好かったの、あははははは」
規矩男も「あはははははあ」と笑っちまうと、あとは二人とも案外けろり[#「けろり」に傍点]として、さっさと歩き出した。非常に脱し易そうでそれを支えるバランスを二人は共通に持ち合っているとかの女には思えた。その自覚が非常にかの女を愉快にし、爽《さわや》かにした。かの女は甘く咽喉《のど》にからまる下声で、低くうたを唄《うた》いながら歩いた。規矩男は暫く黙って歩いた。
そのうちに二人はまたいつか規矩男の家の近所に来ていた。黙っていた規矩男は、急にはっきりした声で云った。
「いや、いまにきっと逢せます。然し、僕はあなたに母を逢せる前に聞いて頂きたいことがあるんですけれど……僕が云い出すまで待ってて下さい」
「そう? 優等生型の身辺事情には、いろいろ順序が立っているでしょうからねえ」
「からかわれる張り合いもないような事なんです」
規矩男の家は松林を両袖にして、まるで芝居の書割のように、真中の道を突き当った正面にポーチが見え、蔦《つた》に覆われた古い洋館である。
「感じのいいお家じゃなくって」
「古いのが好いだけです。いまにご案内します」
そういって何故か規矩男は去勢したような笑い方をした。その笑い方はやや鼻にかかる笑い方で、凜々《りり》しい小ナポレオン式の面貌とはおよそ縁のない意気地のなさであった。
「規矩男さん、あなたを見ていると、時々、いつの時代の青年か判らないような時もあってよ」
すると規矩男は、さっと暗い陰を額から頬《ほお》へ流し去って、それから急いでふだんの表情の顔に戻った。
「たぶんそうでしょう。自分でもそう感じる時がありますよ」規矩男は艶々《つやつや》した頬を掌で撫《な》でて、「僕はあなたのむす子さんとは違った母に育てられたんですから」
「と云うと?」
「僕の積極性は、母の育て方で三分の一はマイナスにされてますから」
かの女はこの青年のこれだけ整った肉体の生理上にも、何か偏ったものがあるのではないかと考えてみた。これだけつき合った間に気がついただけでも、飯の菜、菓子の好みにも種類があった。酸味のある果物は喘《あえ》ぐように貪《むさぼ》り喰《く》った。道端に実っている青梅は、妊婦のように見逃がさず※[#「※」は「手へん+宛」、第3水準1−84−80、648−中−4]《も》いで噛《か》んだ。
「喰ものでも変っているのね、あなたは」
「酸っぱいものだけが、僕のマイナスの部分を刺戟《しげき》するロマンチックな味です」
規矩男には散歩の場所にもかたよった好みがあった。
規矩男は母の命令で食料品の買付けに、一週一度銀座へ出る以外には、余所《よそ》へ行かないといっているとおり、東京の何処のこともあまり知らない様子。武蔵野のことは委《くわ》しかったが、それにも限度があった。彼の家のある下馬沢を中心に、半径二三里ほど多少|歪《ゆが》みのある円に描いた範囲内の郊外だけだった。武蔵野といってもごく狭い部分だった。それから先へ踏み出すときは、
「僕には親しみが持てない土地です。引返しましょう」とぐんぐんかの女を導き戻した。
そんな時、規矩男の母にもこういう消極的な我儘《わがまま》があるのかしら……などと、かの女はいくらかの反感を、まだ見ぬ規矩男の母に持ったこともあったが、かの女はここにもまた、幾分母の影響を持つ子の存在を見出して、規矩男もその母もあわれになった。それに規矩男の好みの狭い範囲には、まったく美しい部分があった。そしてかの女は規
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