《やぶがら》しの蔦《つた》が葡《は》い廻っていた。
規矩男は小戻りして、かの女から預っているパラソルで残忍に草の蔓《つる》を薙《な》ぎ破り、ぐんぐん先へ進んだ。かの女はあとを通って行った。
雑木林の傾斜面を削り取って、近頃|拓《ひら》いたらしい赤土の道が前方に展開された。午後三時頃と覚える薄日が急にさして、あたりを真鍮色《しんちゅういろ》に明るくさせ、それが二人をどこの山路を踏み行くか判らないような縹緲《ひょうびょう》とした気持にさせた。
「まあこんなところがあるの」かの女は閃《ひらめ》く感覚を「猫の瞳《ひとみ》」だの「甘苦い光の澱《よど》み」だのと手早くノートしていると、規矩男は浮き浮きした声で云った。
「何? インスピレーション採っているの? 歌のですか」
「ふふふふ、歌のよ」
かの女はこのプラスフォーアを着たナポレオン型の美青年と歌の話をするのもどうかと無関心な顔をして、今日の規矩男の気勢を避けるため、さっきから持ち出していた小ノートに尚《なお》自分勝手な目前の印象を書き続けて行った。
「僕はあなたの歌を一昨夜母から見せられましたよ」
「あなたお母さんに私の事話しましたか」
「話しました」
「どうして知り合いになったって?」
「そんなこと気にかけないで下さい。僕だって文学青年だったこともあるもの、何も不思議がりはしませんよ。母はむしろ嬉《よろこ》んでいる様子でした。二三ヶ月前の雑誌から目つかったあなたの歌なんか僕に見せるくらいですもの。或はそれとなく心がけて見つけたんじゃないかな」
「…………」
「やっぱり巴里《パリ》のむす子さんへの歌だったな。『稚《おさ》な母』って題で連作でしたよ」
「…………」
「沢山あった歌のなかで一つだけ覚えてて僕暗記してます――鏡のなかに童顔写るこのわれがあはれ子を恋ふる母かと泣かゆ――ねえ、そうでしたね」
突然、かの女は規矩男と若い男女のように並んで歩いている自分に気がついた。つぎ穂のないような恥しさがかの女を襲った。それからかの女は突飛《とっぴ》に言って仕舞った。
「あなたの許嫁《いいなずけ》にも逢《あ》わしてよ」
かの女は立ち停《どま》って眼を閉じた。が、やがて何もかも取りなすような逸作のもの分りの好い笑顔が、かの女の瞼《まぶた》の裏に浮ぶと、かの女は辛うじて救われたように、ほっと息をして歩き出した。
「どうかしましたか」
と規矩男が傍へ寄って来るのを、かの女は押しのけてどんどん歩き出した。
規矩男の家は武蔵野の打ち続く平地に盛り上った一つの瘤《こぶ》のような高まりの上に礎石を載せていた。天井の高い二階建ての洋館は、辺りの日本建築を見下すように見える。赤い煉瓦《れんが》造りの壁面を蔦蔓《つたづる》がたんねんに這《は》い繁ってしまっている。棲家として一番落着きのある風情を感じさせるものは、イギリスの住宅建築だということを、規矩男の父親は、その外国生活時代に熟々《つくづく》感じたので、辺りの純日本風景にはそぐわないとも考えたが、そんな客観的の心配は切り捨てて、思い切り純英国式の棲家を造らせ、外国で使用した英国風の調度類を各室にあふれるように並べて、豊富で力強い気分を漂わせた。建築当初は武蔵野の田畑の青味に対照して、けばけばしく見え、それが却《かえ》ってこの棲家を孤独な淋しい普請のようにも見させたが、武蔵野の土から生えた蔦が次第にくすみ行く赤煉瓦の壁を取り巻き、平地の草の色をこの棲家の上にも配色すると、大地に根を下ろした大巌《おおいわ》のように一種の威容を見せて来た。
正面の石段を登ると、細いバンドのように閂《かんぬき》のついた木扉が両方に開いて、前房《ヴェルチビュル》は薄暗い。一方には二階の明るさを想《おも》わせる、やや急傾斜の階梯《かいてい》がかっちりと重々しく落着いた階段を見せている。錆《さ》びた朱いろの絨緞《じゅうたん》を敷きつめたところどころに、外国製らしい獣皮の剥製《はくせい》が置いてあり、石膏《せっこう》の女神像や銅像の武者像などが、規律よく並んでいる。
かの女を出迎えて、それからサロンへ導いた規矩男の母親は、
「毎度、規矩男がお世話さまになりますことで」
と半身を捩《ね》じらして頭を下げた。もっともその拍子にかの女の様子をちらりと盗《ぬす》み視《み》したけれども、かの女はどこの夫人にもあり勝ちな癖だからと、別にこれをこの夫人の特色とも認めることは出来なかった。
かの女は普通に礼を返した。
話はぽつんとそれで切れた。好奇心で一ぱいのかの女には却って何やかや観察の時間が与えられ都合がよかったが、常識的の社交の儀礼に気を使うらしい夫人は、ひどく手持ち無沙汰《ぶさた》らしく、その上茶を勧めたり菓子を出したりして、沈黙の時間を埋めることを心懸けているように見えた。
かの女は、まず第一に夫人を美人だなと思った。それは昔風の形容の詞句を胸のうちに思い泛《うか》べさせる美人だなと思った。いわゆる瓜実顔《うりざねがお》に整った目鼻立ちが、描けるように位置の坪に嵌《はま》っていて、眉《まゆ》はやや迫って濃かった。かの女は逸作の所蔵品で明治初期の風俗を描いた色刷りの浮世絵や単色の挿画を見て知っていた。いわゆる鹿鳴館時代《ろくめいかんじだい》と名付ける和洋混淆《わようこんこう》の文化がその時期にあって、女の容姿にも一つタイプを作った。江戸前のきりりとして、しかも大まかな女形男優顔の女が、前髪を額に垂らしたり、束髪に網をかけたりしていた。そして襟の詰った裾《すそ》の長い洋装をしていた。
いま夫人は髪や服装を現代にはしているが、顔立ちは鹿鳴館時代の美人の系統をひくものがあった。土着の武蔵野の女には元来こういうタイプがあるのか、それともこの夫人だけが特にこういう顔立ちに生れついたのか、かの女は疑いながら、しかし無条件に通俗な標準の眼から見たら、結局こういうのが美人と云えるのではないかと思ったりした。蔦の葉の単衣《ひとえ》が長身の身体に目立たぬよう着こなされていた。
「この辺は藪《やぶ》がありますので、春の末からもう蚊が出ますのでございますよ。お気をつけ遊ばせ」
と、ちょっと何か払うようなしなやかな手つきをして、更に女中の持って来た果物を勧めたりした。
始終七分身の態度で、款待《もてな》しつづけ、決してかの女の正面に面と向き合わない夫人の様子に、かの女は不満を覚えて来た。
「奥さま、もう結構でございますわ。勝手に頂戴《ちょうだい》いたしますから」かの女はなおもシトロンの壜《びん》の口をあけて、コップの口に臨ませて来る夫人を軽く手で制してそう云った。「それよりか、奥さまにもお楽にして頂いて、何かお話を承りとうございますわ」
「恐れ入ります」
夫人はやっとソファの端に膝《ひざ》を下ろした。しかし、両手で袖口《そでぐち》を引っぱってから畏《かしこ》まるように膝を揃《そろ》え、顎《あご》を引いて、やっぱり顔を伏せ気味にしている。
かの女はすこし焦《じ》れて来た。ひょっとしたら自分の息子と交際のある年上の女性というところをおかしく考え、一種の反意をこういう態度によって示すのではないかしらと、僻《ひが》みをさえ覚えた。かの女は何とか取做《とりな》さねばならぬと考えた。かの女は、
「規矩男さんは、なかなかしっかりしていらっしゃいますね」と云って、あまり早く問題を提議したような流暢《りゅうちょう》でない気持がした。
夫人は息子のことを云われて、何故かぎょっとしたようであった。はじめて正面にかの女を見た。
「そうでございましょうか。なにしろ父の死後女親一人で育てたものでございますから、万事行き届かぬ勝ちでございまして」
夫人の整った美しい顔に憐《あわ》れみを乞《こ》うような縋《すが》りつき度《た》いような功利的な表情が浮んで、夫人の顔にはじめて生気を帯ばした。
はじめからこの顔のどこが規矩男に似てるのだろうかと疑っていたかの女は、はじめて相似の点を発見した。それは規矩男が、一番平凡になって異性に物ねだりするときの顔付きであった。この相似を示す刹那《せつな》を通じて、規矩男の眼鼻立ちの切れ目に母親の美貌《びぼう》の鮮かさが伝っているのがはっきり観《み》て取れた。
夫人は心安からぬ面持ちを続けながら、
「なにしろわざと大学へは入学をおくらせて、ただぶらぶら遊んで居りますし、ときどき突拍子もないことを云い出しますし、私一人の手に負えない子でして、奥さまのようなお偉い方とお近付きになりましたのを幸い、あれに意見して頂き、また今後の教育の方法に就《つ》いてもお伺いもして見たいとは思って居りましたのですが、あんまり無学なお訊《たず》ね方をするのも失礼でございますし」夫人は両袖《りょうそで》を前に掻《か》き合せた。
かの女は夫人をあわれと思い乍《なが》ら頓《とみ》に失望を感じた。あれほどの複雑な魂を持つ青年の母としては、あまりに息子の何ものをも押えていない母。ただ卑屈で形式的な平安を望むつまらない母親である。なるほど規矩男が、かの女に母を逢《あ》わせることを躊躇《ちゅうちょ》したのも無理はないと、かの女は思った。
「そんなことごさいませんわ。むす子を持ちます母親同志としてなら、何誰とどんなお話でも出来ますわ」
かの女はそう云って、相手に対する影響を見ているうちに微《かす》かな怒りさえこみ上げて来た。もしこの上、この母親に不甲斐《ふがい》ない様子を見続けるなら、
「ぐずぐずしているなら、あなたのあんないいむす子さん奪《と》っちまいますよ」と云ってやり度《た》い位だった。
だか夫人は、かの女のそういう心の張りを外の方へ受けて行った。
「失礼ですけれど、あなたはそんなむす子さんがおありのようにお見受け出来ません。あんまりお若くて」
かの女はこの際「若い」と云われることに甘暖かい嫌悪を感じた。
今までの款待《もてなし》の上に女中がまたメロンを運んで来た。すると夫人は、またその方に心を向けてしまって、これは近所で自慢に作る人から貰ったとか、この片が種子が少いとか、選《よ》り取るのに好意を見せて勧めにかかった。
そんなことにばかりくどくかかずらっている母親にかの女は落胆して、もうどうでもいいと思った。自分の息子が大事だ。人のむす子やその母親のことなど、心配する贅沢《ぜいたく》はいらないと思った。しかし規矩男のぶすぶす生燃えになっているような魂を考えると、その母をも、もう少し何とかしてやりたいと諦《あきら》め兼ねた。窓の外の木々の葉の囁《ささや》きを聴き乍《なが》ら、かの女は暫《しばら》く興醒《きょうざ》めた悲しい気持でいた。すると何処かで、「メー」と山羊《やぎ》が風を歓《よろこ》ぶように鳴いた。
さっきから、かの女の瞳《ひとみ》を揶揄《やゆ》するように陽の反射の斑点《はんてん》が、マントルピースの上の肖像画の肩のあたりにきろきろして、かの女の視線をうるさがらしていた。窓外の一本太い竹煮草《たけにぐさ》の広葉に当った夕陽から来るものらしかった。かの女はそのきろきろする斑点を意固地《いこじ》に見据えて、ついでに肖像画の全貌《ぜんぼう》をも眺め取った。幸い陽の斑点は光度が薄かったので、肖像画の主人公の面影を見て取ることが出来た。金モールの大礼服をつけた額の高い、鼻が俊敏に秀でている禿齢の紳士であった。フランス髭《ひげ》を両顎《りょうあご》近くまで太く捻《ひね》っているが、規矩男の面立ちにそっくりだった。
かの女はつと立ち上り、その大額面の下に立ってやや小腰をかがめ、
「これ、規矩男さんの、おとうさまでいらっしゃいましょうか」と云った。
釣り込まれたようにかの女のそばへ寄って来て、思わず並んで額面を見上げた夫人は、無防禦《むぼうぎょ》な声で、
「はあ」と云ったが、次にはもう意志を蓄えている声で、「これはあんまりよく似ちゃおりません。少し老けております」
と云った。規矩男から彼の父親の晩年の老耄《ろうもう》さ加減を聞いて知っているかの女は、夫人が言訳しているなと思った。年齢に大差ある結
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