へ、ひょっこりとまた手紙が来た。
「僕だけでお目にかかれないとなれば、僕の母にも逢ってやって下さい。僕等は親子二人であなたから教えて頂き度いことがあるんです。頼みます」
 この手紙には今までと違って、何か別に撃たれるところのものがあった。それに遠く行き去った愛惜物が突然また再現したような喜悦に似た感情が、今度は今迄のすべての気持を反撥《はんぱつ》し、極々単純に、直ぐにも逢う約束をかの女にさせようとした。逸作も青年の手紙を一瞥《いちべつ》して、
「じゃまあ逢って見るさ。字の性質《たち》も悪くないな」
 急にかの女の眼底に、銀座の夜に見たむす子であり、美しい若ものである小ナポレオンの姿が、靉靆朦朧《あいたいもうろう》と魅力を帯びて泛《うか》び出して来た。かの女はその時、かの女の母性の陰からかの女の女性の顔が覗《のぞ》き出たようではっとした。だが、さっさと面会を約束する手紙を青年に書きながら、そんな気持にこだわるのも何故かかの女は面倒だった。
 フリジヤがあっさり挿されたかの女の瀟洒《しょうしゃ》とした応接間で、春日規矩男にかの女は逢った。かの女の手紙の着いた翌晩、武蔵野の家から、規矩男は訪ねて来たのであった。部屋には大きい瓦斯《ガス》ストーヴがもはやとうに火の働きを閉されて、コバルト色の刺繍《ししゅう》をした小布を冠《かぶ》されていた。かの女が倫敦《ロンドン》から買って帰ったベルベットのソファは、一つ一つの肘《ひじ》に金線の房がついていた。スプリングの深いクッションへ規矩男は鷹揚《おうよう》な腰の掛け方をした。今夜規矩男は上質の薩摩絣《さつまがすり》の羽織と着物を対に着ていた。柄が二十二の規矩男にしては渋好みで、それを襯衣《シャツ》も着ずにきちんと襟元を引締めて着ている恰好《かっこう》は、西洋の美青年が日本着物を着ているように粋《いき》で、上品で、素朴に見えた。かの女は断髪を一筋も縮らせない素直な撫《な》でつけにして、コバルト色の縮緬《ちりめん》の羽織を着ている。――何という静かな単純な気持――そこには逢わない前のややこしい面倒な気持は微塵《みじん》も浮んで来なかった。一人の怜悧《れいり》な意志を持つ青年と、年上の情感を美しく湛《たた》えた知識婦人と――対談のうちに婦人は時々母性型となり、青年はいくらかその婦人のむす子型となり――心たのしいあたたかな春の夜。そうした夜が三四日おきに三四度続くうち、かの女は銀座で規矩男のあとをつけた理由を規矩男に知らせ、また次のような規矩男の身の上をも聞き知った。
 外交官にしては直情径行に過ぎ、議論の多い規矩男の父の春日越後は、自然上司や儕輩《さいはい》たちに好かれなかった。駐在の勤務国としてはあまり国際関係に重要でない国々へばかり廻《まわ》されていた。
 任務が暇なので、越後は生来好きであった酒にいよいよ耽《ふけ》ったが、彼はよく勉強もした。彼は駐在地の在留民と平民的に交際《つきあ》ったので、その方の評判はよかった。国際外交上では極地の果に等しい小国にいながら、目を世界の形勢に放って、いつも豊富な意見を蓄えていた。求められれば遠慮なくそれを故国の知識階級へ向けて発表した。この点ジャーナリストから重宝がられた。任官上の不満は、彼の表現を往々に激越な口調のものにした。
 国々を転々して、万年公使の綽名《あだな》がついた頃、名誉大使に進級の形式の下に彼は官吏を辞めさせられた。二三の新聞雑誌が彼のために遺憾の意を表した。他のものは、彼もさすがにもう頭が古いと評した。
 彼は覚悟していたらしく、特に不平を越してどうのこうのする気配もなかった。それよりも、予《かね》て意中に蓄えていた人生の理想を果し始めにかかった。
「人生の本ものを味わわなくちゃ」
 これが父の死ぬまで口に絶やさなかった箴銘《しんめい》の言葉でしたと、規矩男は苦笑した。
 父の越後は日本の土地の中で、一ばん郷土的の感じを深く持たせるという武蔵野の中を選んで、別荘風の住宅を建てた。それから結婚した。
「ずいぶん、晩婚なんです。父と母は二十以上も年齢が違うのです。父はそのときもう五十以上ですから、どう考えたって、自分に子供が生れた場合に、それを年頃まで監督して育て上げるという時日の確信が持てよう筈《はず》は無かったのに――その点から父もかなりエゴイズムな所のある人だったし、母も心を晦《くら》まして結婚したとも考えられます」と規矩男は云った。
 母の鏡子は土地の素封家《そほうか》の娘だった。平凡な女だったが、このとき恋に破れていた。相手は同じ近郊の素封家の息子で、覇気のある青年だった。織田といった。金持の家の息子に育ったこの青年は、時代意識もあり、逆に庶民風のものを悦《よろこ》ぶ傾向が強くて、たいして嫌いでもなかった鏡子をも、お嬢さん育ちの金持の
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