家の娘という位置に反撥《はんぱつ》して、縁談が纏《まとま》りかかった間際になって拒絶した。そして中産階級の娘で女性解放運動に携わっている女と、自分の主義や理論を証明するような意気込みの結婚をした。
平凡な鏡子が恋に破れたとき、不思議に大胆な好奇的の女になった。鏡子は忽《たちま》ち規矩男の父の結婚談を承知した。父は鏡子の明治型の瓜実顔《うりざねがお》の面だちから、これを日本娘の典型と歓《よろこ》び、母は父が初老に近い男でも、永らく外国生活をして灰汁抜《あくぬ》けのした捌《さば》きや、エキゾチックな性格に興味を持ち、結婚は滑らかに運んだ。
松林の中の別荘《ヴィラ》風の洋館で、越後のいわゆる、人生の本ものを味わうという家庭生活が始まった。
「しかし人生の本ものというものは、そんな風に意識して、掛声して飛びかかって、それで果して捉《とら》えられて味わえるものでしょうか。マアテルリンクじゃありませんが、人生の幸福はやっぱり翼のある青い鳥じゃないでしょうか」
と規矩男は言葉の息を切った。
父はさすがにあれだけの生涯を越して来た男だけに、エネルギッシュなものを持っていた。知識や教養もあった。その総《すべ》てを注いで理想生活の構図を整えようとした。
「いまにきっと、あなたにお目にかけますが、あの家の背後へ行ってごらんなさい。小さいながら果樹園もあれば、羊を飼う柵《さく》も出来ています。野鳥が来て、自由に巣が造れる巣箱、あれも近年はだいぶ流行《はや》って一般に使われていますが、日本へ輸入したのは父が最初の人でしょう」
父のいう人生の本ものという意味は、楽しむという意味に外ならなかった。自分は今まであまりに動き漂う渦中に流浪し過ぎた。それで何ものをも纏って捉え得なかった。静かな固定した幸福こそ、真に人生に意義あるものである。彼の考えはこうらしかった。彼は世界中で見集め、聞き集め、考え蓄《た》めた幸福の集成図を組み立てにかかった。妻もその道具立ての一つであった。彼はこういう生活図面の設計の中に配置する点景人物として、図面に調和するポーズを若き妻に求めた。
鏡子ははじめこれを嫌った。重圧を感じた彼女は、老いた夫であるとはいえ、たとえ外交官として復活しなくとも、何か夫の前生の経験を生かして、妻としての自分の生活を華々しく張合いのあるものにして呉《く》れることを期待した。その点によって夫と自分との年齢の差も償えると思っていた。だが夫は毎朝飲むコーヒーだけは、自分で挽《ひ》いて自分でいれる器用な手つきだけのところに、文化人らしい趣を遺《のこ》すだけで、あとは日々ただの村老に燻《くす》んで行った。彼女は従えられ鞣《なめ》されて行った。
「おかしなことには、この都会近くの田舎というものは、市場へ運ばれて売られる野菜や果物同様、住む人間までも生気を都会へ吸い取られて、卑屈に形骸的にならされてしまうのですね」
規矩男は父を斯《こ》うも観察した。女の子が生れてすぐ死に、二番目の規矩男が生れたときは、父親は既にまったく老境に入って、しかも、永年の飲酒生活の結果は、耄《ぼ》けて偏屈にさえなっていた。女盛りの妻の鏡子は、態《わざ》と老けた髪かたちや身なりをして、老夫のお守りをしなければならなかった。(母の幾分|僻《ひが》んだ、ヒステリックな性格も、この頃に養われたらしい)
「父は死ぬ間際は、書斎の窓の外に掘った池へ、書斎の中から釣竿《つりざお》を差し出して、憂鬱《ゆううつ》な顔をして鮒や鮠《はえ》を一日じゅう釣っていましたよ。関節炎で動けなくなっていました。母はもう父に対して癇《かん》の強い子供に対するような、あやなし方をしていました。食事のときに、一杯ずつ与える葡萄酒《ぶどうしゅ》を、父はもう一杯とせがむのを、母は毒だと断るのにいつも喧嘩《けんか》のような騒ぎでした」
中学校から帰って規矩男が挨拶《あいさつ》に行くと、老父はさすがに歓んでにこにこした。そして、「おまえは今から心がけて人生の本ものの味わいを味わわなくちゃいかん」と口癖にいった。それは人生を楽しめという意味に外ならなかった。規矩男には老ぼけて惨な現在の父がそれをいうと、地獄の言葉とよりしか響かなかった。
父が死んで荷を卸した感じに見えた母親は、一方貞淑な未亡人であり乍《なが》ら、いくらか浮々した生活の余裕を採り出した。
「面白いことは」と規矩男は云った。その昔の母の失恋の相手の織田や、いわば彼女の恋仇《こいがたき》である織田の妻が、今は平凡に年とって子供の二三人もあるのと、母は家庭的な交際を始めていることだった、もっとも織田は、その後、財産をすっかり失《な》くしてしまって、土地に自前の雑貨店を営んで、どうやら生活している。彼の知識的の妻も、解放運動などはおくびにも出さなくなり、克明に店や家庭
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