いって折よく来た逸作の傍へ馳け寄った。


 あなたはO・K夫人でいらっしゃいましょう。僕は一昨夜あなたに銀座であとをつけられた青年です。僕は初め、何故女の人が僕について来るのかと不思議だったのです。それが更に世に名高いO・K夫人らしいのに驚き、最後にあれだけでお別れして仕舞うのが惜しくて堪《たま》らなくなったはずみ[#「はずみ」に傍点]で、思わず言葉をおかけしました。するとあなたは恰《あたか》も不良青年にでもおびやかされた御様子で、逸作先生(僕はあの方があなたの御主人で画家丘崎逸作先生だと直《す》ぐ判りました)の方へお逃げになりました。僕には何もかも不思議なのです。しかもあなたがお逃げになったあと、僕は一人で家へ帰りながら、どうしてもまたあなたにお目にかかりたくて仕方がなくなり、今でもその気持で一ぱいです。僕はあなたが有名な女流作家であるからとか、年長の美しい婦人に興味を持つとか、単なるそんな意味ばかりではなし、何故あなたのような方が、あの晩、あんな態度で僕をおつけになり、最後に僕を不良青年かなぞのように恐れてお逃げになったか、その意味が伺い度《た》いのです。
 こんな意味の手紙。これは銀座でそのことがあって一日おいて来た、あのナポレオン型の美青年からの手紙であった。かの女はその手紙に対してどういう返事を出して好いか判らなかった。何となく懐しいような、馬鹿らしいような、煩わしいような恥らわしい自己嫌悪にさえかかって、そのまま手紙を二三日放って置いた。
 いくらか習わされた良家的の字には違いないが、生来の強い我《が》が躾《しつけ》の外へはみ出していて、それが却《かえ》って清新な怜悧《れいり》さを表わしているといった字体で、それ以後五六本の手紙がかの女に来た。字劃《じかく》や点を平気で増減していて、青年期へ入ったばかりの年齢の現代の若ものに有り勝ちな、漢字に対する無頓着《むとんちゃく》さを現わしていたが、しかし、憐《あわ》れに幼稚なところもあった。名前は春日規矩男と書いてあった。
 書面の要求は初めの手紙と同じ意味へ、返事のないのに焦《じ》れた為か、もっと迫った気持の追加が出来て、銀座で接触したのを機縁として、唯《ただ》むやみにもう一度かの女に会い度いという意慾の単独性が、露骨に現われて来ていた。
 文筆を執ることを職業として、しじゅう名前を活字で世間へ曝《さ》らしているかの女は、よくいろいろな男女から面会請求の手紙を受取る。それ等を一々気にしていては切りがない――と、かの女は狡《ずる》く気持の逃避を保っていた。けれども青年の手紙の一つより一つへと、だんだんかの女の心が惹《ひ》かれてはいた。かの女はあの夜の自分の無暗な感情的な行為に自己嫌悪をしきりに感じるのであるけれど、実際は普通の面会請求者と違って、これはかの女の自分からアクチーヴに出た行為の当然な結果として、かの女としてもこの手紙の返事を書くべき十分の責任はある。かの女はやがてそこに気づくと、青年に対する負債らしいものを果す義務を感じた。けれども、それはやや感情的に青年に惹かれて来ているかの女の自分に対する申訳であって、なにもかの女がほんとうに出し度くない返事なら出さなくて宜い、本当に逢《あ》い度くないなら逢わなくても好いものをと、かの女の良心への恥しさを青年に対する義務にかこつけようとするのを意地悪く邪魔する心があり、かの女はまた幾日か兎角《とかく》しつつ愚図愚図していた。するとまた或日来た青年の手紙は強請的な哀願にしおれて、むしろかの女の未練やら逡巡《しゅんじゅん》やらのむしゃむしゃした感情を一まとめにかき集めて、あわや根こそぎ持ち去って行きそうな切迫をかの女に感じさせた。それが何故かかの女を歯切れの悪い忿懣《ふんまん》の情へ駆り立てた。 
「馬鹿にしてる。一ぺんだけ返事を出してよく云って聞かしてやりましょうか」
 縺《もつ》れ出しては切りのないかの女の性質を知っている逸作は言下に云った。
「考えものだな。君は自分のむす子に向ける感情だけでも沢山だ。けどこないだ[#「こないだ」に傍点]の晩は君の方から働きかけたんだから逢ってやっても好いわけさね」
 彼女は結局どうしようもなかった。こだわったまま妙な方面へ忿懣を飛ばした。――少くともかかる葛藤《かっとう》を母に惹起《じゃっき》させる愛憐《あいれん》至苦のむす子が恨めて仕方がなかった。何も知らずに巴里《パリ》の朝に穏かに顔を洗っているであろうむす子が口惜しく、いじらしく、恨めしくて仕方なかった。 
 半月ばかりたった。かの女はあまり青年の手紙が跡絶《とだ》えたので、もうあれが最後だったのかと思って、時々取り返しのつかぬ愛惜を感じ、その自分がまた卑怯《ひきょう》至極《しごく》に思われて、ますます自己嫌悪におちいっているところ
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